今生きている現実と、子宮内で体験した現実とに大きな開きがあり、いつもおびえて、応えず、気味の悪さを抱えているひとりの人間。
その人間は、家の近くにある川沿いをひとりで歩く時間に、妙な安らぎを見出すようになります。
ここには誰もいない。
ここには水のほかなにもない。
私は、
「自分は現実には存在しない」
という考えに、よく親しむようになりました。
そう考えると、私の応えなさも、愛さなさも、よく分かるからです。
ここを足場にすると、辛うじて前に進めるひとつの運動が現れるからです。
私は自分の応えなさを深く内化し始めました。
それは、現実の気味の悪さに対峙するための、私の確かな世界となりました。
小学校3年生か、4年生のとき、クラス全員で詩を書き、あとで誰のものが良かったのかを投票で決めるような授業がありました。
そのとき、何故かは分かりませんが、私は家族を題にして詩を書きました。
家族を、讃歌するような詩です。
現実に抱いていた気味の悪さは微塵も覗かせず、専ら褒め称えることを旨としました。
私は後の投票で一番に選ばれました。
こういうものを特に何も教えてもらわなくてもスラスラと出せる、ということが、ひそかな生きる自信にもなった、初めての体験だったと思います。
しかしそれは同時に自身に対する疑いをも招びこみました。
こういうものと、一体いつから身近になったのか。
何故私は詩的なものに最初から近いのか。
小学生の頃から案外簡単に出来てしまうということが、喜びである一方で、
「こういうものといきなり身近ではありえないのが小学生というものの当たり前の姿ではないだろうか」
という疑念が身体を離れなくなるのです。
この奇妙な近さも、その当時はよく分からなかったことですが、今思うとそれは、幼いながらに、気味の悪い現実に対して、私はむしろ存在しないと規定し、ひとりの時間を好み内世界を深化するという道を辿ることによって、必然的に詩世界へ接近していたことによるのでしょう。
私は抗議のために泣き喚いた記憶がないという話を以前このテーマのなかでしました。
当然そのような人間に、ひと目見て明らかな反抗期のようなものも存在しようがありません。
ですが、過去を振り返って、母に、
「私には反抗期がなかったように思うがどうだろう」
と問うと、
「確かに一般的に言うところの反抗期というものはなかったように思うが、反抗していなかった訳ではないと思う」
という答えが返ってくるのです。
私自身は半信半疑でしたが、このように過去と治療をテーマとして物事を書き連ねてくると、確かに私なりの反抗の仕方というものは存在した、それも激しい仕方で存在したのだ、ということが徐々に分かってくるようになります。
私は、
「私は存在しない」
という妄想を、
「人に対して応えない」
という特質を、それらマイナス面を含むものらを、逆に上手く自己の抵抗の足場とするようにして鍛え、育てたのです。
ここを私は自分の場所とすることに決めていたのです。
これが反抗でなくて何でしょうか。
存在しているものとして接してくれる周りの人に、存在しないものであるかのように応答していく。
何かを投げかけてくれる人に対し、自己を開かない、応えないという仕方で対応する。
これが、激しい抵抗でなくて何でしょうか。
ひとつ例を見ましょう。
これは中学生の頃になります。
私は相変わらず野球を続けていましたが、まだ1年生であるにも関わらず、練習試合や何かで、投手として起用されることがありました。
そのことを家に返って報告すると、父は、
「別にお前がすごい訳ではなくて、ただ左利きの人間だからということで、物珍しくて使われたんだろう」
というようなことを言いました。
私は、そんなことを言われる意味が最初はよく分からなかったので黙っていましたが、見かねた母が、
「お父さんはあなたを発奮させたくてわざとああ言うんだよ。だからこれからも頑張らなければ駄目だよ」
というのです。
本当なら、この父の発言を受けて、まさに発奮するか、逆に拗ねてみたりすれば良いのですが、私はこの後の日々、父の発言などまるでなかったかのように振舞うようにしたのです。つまり、
「あなたの言葉というのは私の世界に存在しない」
という態度でどこまでも進めていったのです。何故そうするかといえば、私はこの態度を自己の世界の足場にしていたからです。
これが、気味の悪い人間の所作でなくて何でしょうか。
存在しない、応えないという内化が極まり、抵抗が強固になっていくのと歩調を合わせるように、中学生以後、父は、私は、家族は、全ては荒み、また、応えないということを旨とする私の態度が反射したのか、家族の、主に父との間に漂う空気は、決して交じり合わない、大事なことも話さない、信頼もしない、冷戦のような状況へと突入していくことになります。