<2645>「身体の具体性は、他人に期待をしない」

 現在を、無音で通過する、

 ここは、

 何もない場所だ、というように、

 しかし、、

 ここが、後から振り返られて、、

 ある確かな形になっているのは何故だ、、

 ただ同じ風景を見つめるのでも、

 今の映像は、

 私のずっと先まで、残る、、

 それが分かるのが、

 いつまでも不思議だ、、

 

 あたしは、、

 どうしてひとりでいるのか、

 それは、

 身体の具体性に、注目しているからなのか、どうか、、

 真実かどうか分からない話を、、

 嬉しそうに語る人を見て、

 どこか遠いのは、、

 その話を疑うからでも、

 警戒するからでもない、、

 それが、

 生きているあなたの、具体的な身体に、

 どういう関係があり、

 どういう興味を起こすのかが、

 全く分からないことにより、遠いのだ、、

 具体的な身体は、

 昨日久しぶりにざわめき、駆けていた、、

 これは久しぶりだな、

 私も、このとき、

 呼吸を深くして、、

 このざわめきが、過ぎ去るのを、

 黙って、

 待っているしかないことを、

 久しぶりに、思い出した、、

 

 私はそういう意味で、

 幻想の少ない人間である、

 と思うと同時に、いや、

 人がそれぞれ、幻想を抱く場所は異なる、と、

 考えてみてもいる、

 例えば、

 昼の一時の光に、

 過去や未来への通路を見る、という在り方も、、

 まるで理解し難いことに、違いはない、

 

 私は、

 他人に期待するという部分が、

 少しもないのは、

 なんとも変だ、と思いました、、

 他人に期待する、という在り方は、

 家族適合的です、、

 子どもの舞台へついていく、、

 子どもへ、

 名コーチのように何でもかでも、仕込んでいきたがる、、

 家族適合的な、所作が、私に、見当たらない、、

 好きにやったらいいんじゃないですか、と言えば、それは冷たいということに、なろう・・・