<2624>「気持ちの悪い日曜日~過去と治療1」

 今はもうそんなに若くもないので、それぞれの人生の物語や環境が違うことがよく分かっています。なので、一般的には、人間は、家族というものを形成していった方が良いのだと、今は考えています。

 しかし、個人的な話をすれば、私は、家族という在り方を、全く信じていません。

 個人的には家族という在り方を全く信じていないのに、人間は一般的に言えば家族というものを形成した方がいいと考えている私とは何でしょうか。

 

 自己の治療として、などと言って、治療になれば万々歳ですけども、ただ自ら持っていた傷を、ただいたずらに広げるだけのことになりそうな気もします。しかし、私は前に進むために、過去を探ってみたいのです。

 

 

 私は小学生の頃、「日曜日の気持ち悪さ」とも言うべきものに出合い、大変戸惑っていました。

 親が、子が、仕事から、学校から解放され、家族揃って食卓を囲む、その朝や昼間の時間。

 

 その、一家団欒の時間が、誰かに不愉快なことをされたり、言われたりする訳でもなかったのに、むしろ空気自体は和やかなのに、

「これは嘘だ。何かが間違っている」

「この空間にいることがすごく気持ち悪い」

と感じていたのでした。

 

 もちろん、そんなことは家族の誰にも伝えることなど出来ませんでしたし、そもそも、その場では嫌な出来事などなにひとつ起こっていないのですから、仮に思い切って伝えたとしても、私がそんなことを言い出す理由が全く分からなかったことでしょう。

 私にだって何故そんな気持ちになるのかを説明しろと言われても無理だったでしょうし、きっと今でも無理なのではないかと思います。

 

 一家全員が仲良く食卓を囲む場面、その日曜日の場面が、気持ち悪さの程度に差はあるにしても、あまり愉快な場面、安心出来る時間であり得たことは、ほとんどなかったのではないかと思います。

 

 きっと、小学生の頃に、既にそういうことを感じる人間が出来上がっていたということは、もっと遡ったところに、何かがあったはずなんだ、何も起きていない場面ですら、そんな気持ち悪さを感じるぐらいなら、きっともっと前に何かが起こっていたはずなんだ、と思っていました。

 

 その日曜日の気持ち悪さを裏付けるように、家族というものは、大体私が中学生ぐらいの頃から徐々に徐々に音を立てて壊れ始めていくのですが、その進行を目にすると、やはり、私が記憶していないほど幼い頃に何かがあったはずなんだ、という思いは日に日に強くなっていきました。

 

 私のそんな欲求を、もちろん直接話したことなどありませんから、知り得なかったはずだとは思いますが、何か、答え合わせをしてくれるかのように、母がある日突然、私がまだ母のお腹のなかにいる頃の話を、私にしてくれたことがありました。