牛河さんも、家族というものに上手く馴染めなかった。
自分がかつて家族を持ち、郊外の一軒家で暮らしていたということ自体が不思議に思える。それは思い違いで、自分は都合にあわせて無意識に過去の記憶を捏造しているのではないかと考えることすらある。(『1Q84 BOOK3 前編』p330 新潮文庫)
牛河の娘たちは小学校での生活を心ゆくまで楽しんでいた。ピアノやバレエを習い、友達も多かった。自分にそういう当たり前の子供たちがいるという事実が、牛河には最後までうまく受け入れられなかった。どうしてこの自分がそんな子供たちの父親であり得るのだろう? (『1Q84 BOOK3 後編』 p100 新潮文庫)
幼少期から、その外見的醜さ故、すれ違う人が振り返るほどの形で、目立たざるを得なかった牛河さんは、もう少しまともな外見に生まれていたら、と想像することはあっても、それはあまりにもあり得ない想像であると考え、己にもともと備わる思考能力、論理能力を、黙って磨いていく。
いびつさはいびつさとして容れ、機械のように、自身を巧みに仕上げていく。
牛河さんの、その筋のプロフェッショナル性は、既に幼少期において準備されている。
しかし、こんな孤独な研鑽を積んできた人間が、周りのひとつひとつに懐疑を向け、批判とその批判の磨き上げを行ってきた人間が、ひとつの家族を形成することは当然難しい。
安心して他者と同じ価値観を共有することなどできないからだ。
どこにもいびつさを見出すことのできない、平和な、安らかな家族の世界に、牛河さんは何のリアリティも感じられない。
自身のいびつさを受け容れ、周りの世界から離れ徹底的に自己の世界を磨き上げていく、そういった場所こそが、牛河さんが存在できる場所だからだ。
牛河さんが独り身で生きていることは、その来歴からして必然であるように思える。
大塚環の生を追っているとき、私の頭に浮かんだのは、
「この人が生き延びるためには、牛河さんのように生きるしかない」
という考えだった。
共同生活を求めれば、大塚環がそこにイメージできるものは、破壊的なものなのであり、そういった環境に引き寄せられることは必定である。
であれば、死なずに生き延びるには、ひとりで何とかやっていく方法を模索するしかなかったのではないか、と思ったからなのだ。
そういう意味で、大塚環にはその存在を知りようがないにしても、牛河さんの生き方というのは参考になるのではないかと考えた。
しかし前述したように、牛河さんはその形を、ひとりの世界を、幼少の頃から育ててきている。
なので、そういった研鑽の日々を経過した訳でもないのに、破壊的な子ども時代を経てきた上で、なおひとりでひっそりと暮らす、などということを大塚環に求めるのはあまりにも酷であるかもしれないという疑問も残る。
牛河さんのその機械的な自己の仕上げが一番ユニークに光っている場面といえば、それはふかえりに恋に落ちる場面だろう。
現実でも多分にそうであるかもしれないが、一般的に、物語のなかで恋に落ちること、それは「本当」を意味する。
つまりそれ以外のもの、仕事であるとか日々の雑事であるとかは後景に退き、どうでもいいものとして扱われ、その人に恋しているというこの今の気持ちだけが大事なんだ、という論理が出てくる。
なので牛河さんもこの「本当」に従うのなら、自分の役目やなにもかもを振り切って、ふかえりを求めて動かなければならない。
実際に『1Q84』の主人公である天吾や青豆は、その「本当」の力に引きずられて動いている。
しかし、牛河さんはふかえりのことをフラフラと尾行する程度で、「本当」のために何もかもを振り切ることはしない。むしろ、ふかえりに恋することによって起こった痛みやぬくもりを、仕事に支障をきたす嵐かのように扱い、その嵐が自分の身体を過ぎ去るのをじっと耐えて待っているのだ。
つまり牛河さんにとって、「本当」たるべき恋に落ちるという物語は、ただの障害でしかないのだ。
何故そうなるのか。
恋に落ちた先にある、人間と人間との愛し合い、理解し合う関係、その共同生活に、全く何ものをも感じ取ることができなかった、という経験を、牛河さんは既にしているからだ