<1154>「見立てとアクロバティック」

 まあとりあえず話してみてください。

 そうですか。ええと、、何故論理だけでは間違うのか、ということを論じていくというのは野暮天中の野暮天ですが、まあなんとかやってみましょう。

 何もない状態が、まず自然な状態がありますね? そこに言葉を付していく、まあ例えば何にしましょう、、最近気になっているから、「本当」というものを付していくとしましょうか。

 これはまあ見立てですよね。それで、何もない状態のところに「本当」というものを見立てれば、反対側に「本当でないもの」が浮き上がってくるでしょう? ま、言わば「嘘」ですね。「嘘」が自然に浮き上がってくる。まず「本当」という形で見立てをして状態を一度分けたから、では反対のものとはなんだ、というようになってくる。

 しかし、このあくまで見立てであったものが、時間が経つといつしか動かすことの出来ない、厳として存在する絶対物になってしまう。それで言葉に呑まれてしまいますね。まあ言葉に限らず、見立てるという行為にはいつも同じ現象が付きまといます。お金もそうですね。こちらが主に立って見立てていたはずのものに、主をとられてしまう。こちらが従になってしまう。

 それで何が起きるかと言えば、「本当」と「嘘」を巡って激しい争いが起きるんです。当事者にはそれが絶対物に見えていますからね。

 「これこそが本当の」「あんなのは嘘だ、本当ではない」「本当の人間というのは」

というように。しかしこの種の争いには終わりもなければ答えもありません。「本当」は絶対物ではなく見立てだからです。でももう見立てた時代から遥か遠くに来てしまっているので、「本当」という言葉からは逃れられなくなっているんです。がんじがらめですね。

 そこへ、一見するとなんだかよく分からない、非論理的なんだか適当なんだかなんだかの言葉がぴゅっと差し込まれることがあります。

 「本当でもない。嘘でもない」

 「本当であり、同時に嘘でなければならぬ」

とかね。

 なあにそれ、馬鹿じゃないの、と、論理を突き詰めている人なら思うでしょうね。適当な、めちゃめちゃなことを言って得意になってら、と。

 しかし、この論理を否定するような、というか、論理の逆をいくような言葉というのは、例えば、「本当」や「嘘」が絶対物ではなく見立てである、ということを言おうとしているんです。つまり、絶対物と錯覚されているものを見立てに引き戻そうという方法なんですね。だから一見すると変な言葉にしか見えませんが、それだけ「本当」や「嘘」という言葉が絶対物化しているということでもあるんです。そこに割って入ろうとなると動きは必然的にアクロバティックにならざるを得ない。

 ええと、何故論理だけでは間違うか、でしたね、そう、「本当」や「嘘」に空間を分けて、「本当」だけを突き詰めてどこかに辿り着こうとしても、そもそも空間には「嘘」も同じように含まれていたのだから、その理解は不完全、せいぜいが半分までにしかならないということです。伝わりますかね? 「本当」というものが突き詰められて純化されていけばいくほど、空間全体のなかに取りこぼしが多い、つまりそれだけ間違えてしまっていることが多い、ということを言いたいんです。

 論理でどこまでもいこうとし、それが絶対に正しいんだと考えている人たちに不満を感じるのはこういった理由からですね。

 しかし、見立てが、では悪者なのかといえばそんなことはありません。見立てなければ共有出来なかったことを共有出来るようになり、コミュニケーションを成し得る領域、深さがひろがった、というのは当然良いことだと思います。

 じゃあ何が大事なのかというと、見立てはあくまでも見立てである、ということなんです。馬鹿みたいですが、これがなかなか馬鹿にならない。その見立てたものが便利であればあるほど(言葉とかお金はその最たるものですね)、絶対物化しやすい、主が逆転しやすいから、常に、絶対物と錯覚されているものを見立てに回復する作業が必要になるんです。それに、さっき見たように、絶対物であるという錯覚の度合が強ければ強いほど、それを回復する動きはアクロバティックにならざるを得ない、離れ業をやらなければならない。

 厄介なものです。じゃあ最初から見立てなければいいじゃないかといってもそんな訳にはいかない。便利な部分、良い部分もまた相当に多いからです。ただそれだけ便利なものには、非常に大きなものがまたつきまとう、ということです。