<2613>「『1Q84』~大塚環と牛河利治(1)」

 私は本読みではあるのだが空想に弱い。

 現実には起こり得ないこと、起こる可能性の低い物事が次々に重なっていくと、段々と興味が薄らいでしまうのだ。

 恐らくあの大ブームのなかで当時中学生だった私がなんとなくハリー・ポッターにハマり切れなかったのもそういうところがあったのだろう。

 同じ理由で、1Q84のメインストーリーからも、段々と遠ざかっていく私が居た。

 勿論それは私の能力の問題なので、1Q84もハリー・ポッターも何にも悪くない。

 

 にもかかわらず、1Q84は最後まで完走した。完走したのは興味深いポイントにいくつかぶつかったからだ。

 それは物語の本筋とは別のところにあった。

 

 大塚環という、青豆の親友の女性がいる。

 彼女は、暴力的な夫から逃げることが出来なかった。

 逃げられる可能性自体は存在したのに、何故かその場から逃げることが出来なかったのだ。

 

 大塚環は、結婚する前も、どうしようもない男性に惹きつけられて、そこでひどい暴力を受けている。青豆が何か言っても、こと男性のこととなると大塚環は意見を聞かない。

 大塚環の子ども時代というものは、端的に言えば破壊されている。

 おそらく、大塚環は、家族という共同生活に対するイメージを、ここで見事に失っている。あるいは、破壊された姿こそが共同生活のイメージになっている。

 

 人間の一生というのは、自らの意志と環境・来歴とのどうしようもない絡み合いでできている。

 環境や来歴で全てを片付けることも出来なければ、自己責任で全てを解決することも出来ない、そういう絡み合いの、どう解いたら良いのかも分からない場所に生きている。

 

 人間には自分で物事を決める力があるのだから、そんなどうしようもない人間と付き合っていないで、別れてひとりになるか、ちゃんとまともな人を見つけなさい、と諭すのは心情である。そしてそれが青豆の取った方法でもある。

 

 しかし、別れてひとりになること、あるいはまともな人を見つけて結婚すること、その延長線上としての円満な家庭生活、共同生活というものに、おそらく大塚環は、何のリアリティも感じられていない。

 

 そんなものは子ども時代に、育まれる前に完全に破壊されてしまったからだ。

 

 そして、これは常々私が考えていることなのだが、人は、れっきとした現実であっても、リアリティのない場所には到達することができない、あるいは到達しても、そこに留まることが出来ないのではないだろうか。

 

 大塚環にとって、それが後に自らの死を招くものだとしても、破壊された共同生活というものが唯一リアリティを感じられる場所であって、一人で生活するとか、ちゃんとまともな人と結婚するなどということが、無以下のことであったとしたならば、青豆が、そしてこの物語に参加した私が、彼女に言えたことというのは一体どんなことだったのだろう。

 

 大塚環は、破壊的な環境という、彼女が唯一リアリティを感じられる場所にいて、必然とも言うべき自死のタイミングを、待っているしかなかったのだろうか。

 

 解決策の一例と言えるかどうかは分からないが、この物語のなかに一人、家族という共同生活に、何のリアリティも感じられないまま、自身の生を粘り強く作っていく人間がいた。

 

 それが、牛河さんだ。