パレスチナにも当然まっとうな仕事はある。
しかし、それでは家族が生活できない。
そういった経緯から、悪魔の運転手と名指される、不法就労者をイスラエルへ運ぶ仕事を選ぶ人々を追っている。
しかしこの違法な仕事を選んでも、大した額が稼げるわけではない。
この仕事を選ぶ人々を見つめ続けても、不思議と悪人という意識が働いていかない。
必然に運ばれて、当たり前のようにこの仕事に収まっている人々を、ただ私は見ている。
まっとうなことをする。しかし、そのまっとうなこととやらをすると、私たちは生き延びることが出来るのか、と問われれば、静かにここで黙っているしかないような、圧倒的な必然性に導かれて。
この仕事をする人々も、周りの家族も、今すぐにでも転がり落ちてしまいそうだ。
平穏はない。
安定した暮らしもない。
彼らの精神を支えているのは、神様だ。
神が、生きることの中心に、深く、そして自然に刻まれている。
そして、またその同じ、信仰という形の相違において、人々を隣の国へと運ぶことは違法にもなる。その苛烈さは、相手のものを全て破壊しようとするところまで行く。
この映像世界の外部にいる私は、安易に、何かを捨てたらいいとか、そんなことで相手を破壊するところまで揉めているのはおかしいと思わないか、などと言うことができない。
神との関係は、この人々にとってまさに全てである。
それなしの生涯などというものが、おそらく全く想定できないほどには。
諦めとも、前向きとも取れるトーンで、私はこの運命を受け入れる、耐える、という人がいる。
出来ることは何でもやり、その場所で、苦い汗をかき、へとへとになって、なおも生き抜いていくしかない。
それ以外の人生などというものはない、というように。