<1925>「この個人」

 個人というのは何者だろう。

 どういう条件にさらされて、どう考えるのが普通なのだろう。

 そういうことを考えている。

 考えていたいと思う。

 私が個人というのを気にするのは物を考える単位としてこの個人というのが一番の元であると思うから。

 内側と直接繋がって付き合っていくのは自分自身をおいてほかにないから。

 社会の中で家というものの存在感が、ないとは言わないが昔に比べて徐々に薄れているように思えるからなどなど、いろいろな理由はある。

 個人と個人が無数に集まって形成されているのが社会なのだということを忘れるとなにかを間違える気がするから。

 

 気になるもののひとつに被害妄想の問題がある。

 これは、社会のなかに存在する個人、内側を直接的に把握出来るのは自分自身だけであるこの個人が、ごく自然に陥る場所であると思うから気になるのだ。

 つまり、被害妄想という状態に陥るのが個人の根本的な特徴なのだと思うということだ。

 ある日、ある人が突然、あるきっかけから火のごとく怒り出したことがあった。その怒りの言葉の内容には、全く思いもよらない、事実にも基づかないものが多分に含まれていた。

 私は、そういった被害妄想的な話をききながら、内心で、

「違う、なにかが、なにもかもが違うぞ」

と戸惑いながら、同時に不思議とホッとしている自分がいるのに驚いてもいた。

 被害妄想の内容自体には共感し得なかったが、ああこの人も被害妄想をするのだ、この人は、私の外部としてある訳ではなくて、私と同じひとりの個人なのだ、と思って安心したのだと思う。

 個人の根本条件をおさえているというか。

 

 他人はバカだ、という問題も気になる。

 私は、他人はバカだとは思っていなくて、

「自身の身体感覚、意識の外であるということ」

の諸々に、バカという名前を付けているだけなのではないかと考えている。

 つまり他人というのは、私には自明に見えることが自明でないような仕方であらわれることもあるし、いきなり私の想像の外からの言葉を投げかけることもあるし、本当は退屈しているとか喜んでいるとかの私の内心を知らず反対のリアクションを取っている場面に出くわすこともあるし、と、いろいろこちらの想定とはズレてあらわれてくることが多い。それは私が誰かにとっての他人の立場に立ったときも同じことだ。

 

 こういう個人というものの、小宇宙性、超越性というものにも興味を持つ。

 自身の内心を知れるのは自身だけ、

 他者は誰ひとりとして自身の内側は覗けない、

 ゆえに、誰も分かっていない、

 分かっているのは自分だけ、

 というリズムは、容易にこの個人に超越性、小宇宙性を授ける(その人が本当に高いところに行っているとか行っていないとかいうことにかかわらず)。

 これも被害妄想的なのと並べ、個人というものの根本のひとつだと思っている。

 個人というものが持つ性質を見詰めて、個人というのは、はからずもこうなってしまうというのを見極め、その個人同士が付き合っていくにはどうしたらいいかを考えたいのだ。