<1179>「被害妄想の自然さ」

 人が怒ってさ、被害妄想的に内面を吐き出したとき、ちょっとホッとするところない?

 なに、意地悪な話?

 あ、ヤ、ヤ、そうじゃない。もちろんそれを受けたらうろたえるんだけど、同時に、

「あ、この人も風景なんかじゃなくって、わたしと一緒の一個人なんだな」

 ということが分かって安心するというか、

 う~ん分からない。

 あ、あら・・・。まあでも被害妄想っていうぐらいだから、事実によらないイメージや考えなんだろうけど、かといって事実誤認によって起きてくるものとも思えないんだよね。

 被害妄想なんだから事実誤認でしょ。

 あいや、そうなんだけど、結果的に事実は誤認しているんだけど、じゃあ被害妄想は事実誤認によって始まるかっていうとそうでもないと思うんだよね。

 そうかなあ?

 事実誤認がなければ被害妄想は起こらなかったか、というと、それでもやっぱり起こると思うし、正しい事実が確認出来れば被害妄想は止むのかと言えば、やっぱり止まないんじゃないかなと思うんだよね。

 う~ん・・・。

 だから、それは事実じゃないですよ、というように訂正する仕方や、正しい情報を粘り強く伝え続ける、あるいは自分が自分に向かって言い聞かせ続ける、というのは、被害妄想に対するひとつの策ではあると思うんだけど、あんまり効果的ではないと思う。

 そうするしかないように思うけど・・・。

 最初に、人の被害妄想的な発言を聞くと、うろたえると同時にホッとする、という話をしたじゃない? あれ、なんでか考えたんだけど、すごく自然だからなんだよね。

 被害妄想は被害妄想じゃなくて、合ってるってこと?

 あ、や、そうじゃないんだけど、事実は誤認してるんだけど、そうではなくて、一個人が持つ、世界観、といって大袈裟であれば、周辺環境観として、とても自然というか、共感出来る部分が多いな、というように感じるわけ。

 被害妄想が。

 その中身がね。事実関係からいくと、

「周りの人」

 というのは、いわゆるまとめるときに出てくるものであって、実際には周りの人、という人がいるわけではないじゃん?

 そうだね。

 実際にはそんな人はいなくて、一個一個の生身の人間がいるわけだよ。内面と直接繋がることが出来るのは自分自身だけで、他人の内面は推し測ることしか出来ないひとりひとりの人間が無数にいて、無数の現実を捉えている。

 とんでもない話だね。

 考えだすとクラクラするよね。でもそれが事実であり、その事実に対しては、そんなことあり得ないと思っていたり、気づいていなかったりするわけではない。ただ、普段の生活の送り方、それも内面的な状況によるものを見ていくと、そんな認識の仕方、つまり、個々人にバラバラの時間があって、それが何万、何億となって、全くわたしの時間とは重ならなかったり、はたまたしょっちゅう重なったり、時々重なったりしながら、バラバラに無数に動き回っている、という把握のまま生きてはいないじゃない?

 そんなことやってたら、頭が忙しいどころの騒ぎではないよね。

 そうそう。そうなんだよね。だからむしろ、一個のわたしが、このひとつの環境のなかに置かれていて、そこで様々なものと出会っている、というイメージ、認識を持っている状態に居ることの方が、生きているなかでは多いと思う。まあ時々はその無数のバラバラの・・・というのを考えないでもないけど。

 わたしは考えないな。

 そうか、、そいで、だから、

「周りの人」

 という見立ても、普通に人の口にのぼるし、それは何でかというと、普段の主要な認識からくるごくごく自然なイメージだからなんだよね。

 周りの人って発言を、あんまりおかしなものだと思って聞いたことはないね。

 そうでしょ? でも事実とは違う。でも事実を知らない訳でもないし、誤って認識している訳でもない。つまり、一個人が周辺環境をひとくくりにまとめて把握したときに起こる自然なイメージと、事実とのズレから起こるのが被害妄想なんじゃないかな?

 あ、被害妄想の話?

 そうだよ! なんか、病的とまではいかないまでも、

「悪く思われてんじゃないかなあ、心配だなあ」

 という思いが、そんなことないよ、気のせいだよ、の一言でさっぱり消えることってなくない?

 まあそうね。

 それは、事実が足りないからではないということだよ。

 普段から無数の、バラバラに生起している現実というものをイメージし続ければいいってこと?

 それはしんどいから出来ればよしたいね・・・。それよりも、個人が周辺環境のなかに置かれたとき、自分対風景というように整理し、認識してしまうのが自然で、そうすると被害妄想的な思考法というものはいわば自動的に生まれ続けるよりしょうがないものですよね、という共感の姿勢を持つことの方が大事かもしれない。

 それで解決するかな?

 解決は永遠にしないかもしれないけれども、

「そうか、自然と思える認識の仕方と、厳密な事実とは違うものなのか」

と思えて、そういった妄想の出処が確かめられるだけでも幾分良いんじゃないかという気がする。

 なるほど・・・。

 後は、無数の関係をイメージしたりするのは厳しくても、個対個で出会うという機会をいくらかの数持てるといいかもしれないね。

 小さい規模で事実をこまめに入れておく、というか、

 まあそんなイメージだね。まとまりで捉えるというのは便利だし、そうするのが自然だし(そうしないと数が多すぎてわちゃわちゃしすぎて現実に上手く対処できなくなる)、どこもおかしくはないんだけれど、自分の外側をしっかりとしたまとまりだと捉えていれば、どうしても自分の側というのはなんだか小さくて、その環境のなかに自分ひとりだけがポツンとしてあるような気分に当然なるよね。

 自然な認識による副作用みたいなものかな、被害妄想の発露は。

 うん、ただ事実を知るだけで解消することではないと思う。