今までの自分の人生を振り返ると、深く関係を結べる人、長く付き合える人というのは、出会った初日にはもう、感覚的にそうなれるのだと分かる。 それが不思議だ。
人間をそれなりにやってくると、どんな人とも大体穏やかに、無難に付き合うことが出来るようになるのだが、そういう、無難に付き合うことが出来る人と後々打ち解けて深い関係になったという経験がない。
深くなる人とは一瞬で深くなれ、深くなるための過程をゆっくりと辿ったという記憶がない。何故だろう。
一瞬で打ち解けられるからには、それは話す内容によってではないのだろう(ほとんど深める時間を必要としないのだから)。反対に、趣味や嗜好を同じくしていても、上手く打ち解けることが出来ない人はたくさんいる。
それに、これも不思議なことなのだが、深い関係になれる人と一緒にいるときには、
「これから何を話そうかな」
あるいは、
「何かを話さなければいけないな、さてどうしよう」
といった類のことを全く考えていないのだ。
解散して初めて、「あれ?今日は何を話そうかなどということをほとんど一度も考えなかったな、不思議なことだ」と思ったりする。
前は、そんな自分を良くないと思い、
「深い関係を築けないのは私のコミュニケーションの仕方が悪いのであって、しっかりと話せばどんな人とも深い関係になれるチャンスがあるはずだ」
と考えて、コミュニケーションを随分改造しようとしていたこともあったのだが、今思えばそれは随分と自分の身体の事実を無視していたことだったのだということが分かる。
「どんな相手とも、段階的に、有意義なコミュニケーションを取れば深い関係になることが出来る」
という考えは、相手と深くなれるなれないを瞬間的に見極めることが出来るという私の身体の反応的事実を無視した考えだったのだ。
三十年間同じだったことは多分ひっくり返ることはない。
と、この頃そんなことを考えていたらとても気分が落ち着いてきた。私がより私になってきたと言えばいいか。 つまり、これも私が、あるいは他者が各々の特徴を持った具体的な存在であるということだと思うのだが、
「どの相手と深くなってどの相手と深くならないとかを、自分が選ぶことは出来ない、もうそれは瞬間の身体の反応レベルで決まってしまっていることなのだ」
と分かれば、私はその身体の反応に素直に従えばいいだけだからだ。
初日の時点で何かしらの微妙な距離を感じる人とは、おそらく一生深い関係になることはないし、初日の時点で何故か分からないが明らかに私の身体が自由に流れている人とはどうあっても深い関係になれることが、経験から相当確かであることが理解出来た。
ならば人との関係性において、こと深まりの点から言えば、私に出来ることはないということだ。後はその反応に従って、それぞれの関係を築いていければいい。
そして、これはまた具体的な身体の問題になるのだが、おそらく各々の身体が違うので、
「私は、時間をゆっくりとかけて対話を行っていった相手とでなければ深い関係にはなれない」
「話す内容の如何にかかわらず、初日から相手とすぐに深い関係になるなどということは起こらない」
という人も当然存在するだろう。 そうすると、私の経験的事実とは異なる訳だが、言葉の罠(きちっとした論理を組めばどんな場面どんな人間にもそれは適用可能になるなど)にハマると、 「きっとどちらかの経験あるいは推論が間違っているのだ」 という場所に来てしまいがちになるが、そうではなく、シンプルに身体の反応が違うだけなのだろうと思っている。