自由恋愛というのは体のいい嘘だというのが率直な感想だ。
といっても、それは、
「自由に相手を選べないじゃないか」
という意味で言うのではなく、
「恋愛は自由であるというように見せかけて、実は半強制的なものである」
というのを私が常に感じ取ってきたことによる。
嘘をつく必要もないので、訊かれれば恋愛は全くしてきていないと答えるのだが、そうすると大概それは訊いてきた人に大きなインパクトを与えることになる。
性的に関係したこともないといえば、相手の人は一生懸命笑う。
そして、
「どうしてしないのか」
「興味がないのか」
「今後もそういう予定はないのか」
「この先はどうするのか」
と、質問攻めにあう。
思えばその質問の嵐は、小学校高学年か、中学生ぐらいから始まって以来、止むことがなかった。人々の興味の中心は全てそこにあるかのように。
小学校の同級生の女の子は、当時、
「とりあえず好きな人を決める。作る」
と言っていた。
私には何を言っているのかが分からなかった。
何故、ただ、恋愛をしないということだけで、こんなに圧迫を受けなければならないのかが分からなかったのだが、ひょっとして圧迫しているのはむしろ私の方なのではないかと思い始めた。
私は自由恋愛という言葉を、おそらく一番素直に受け取ったのだろう。だから、
「するもしないもそれは私が決めることだ」
とごく自然に考えた。そして全くしてこなかった。
しかし、社会適合的な人が想定し、周りの人々とともに前提としている自由恋愛は、
「誰を好きになるかを決める自由」
「恋人を誰にするかを決めて作る自由」
であって、しない自由はそこに含まれていないのだ。
むしろ、しない自由は脅威に映る。
前提としているもの自体が、切り崩されるような感覚なのだろう。
だから私が正直に答えれば、質問攻めにあうし、一生懸命に笑われるのだ。
私が普段穏やかな態度を心掛けている、などということとは全く別のところで、私は共同体を、常に圧迫する側であったのだ。
これには困った。
私が普段穏やかであることを心掛けているのは、周りの人を緊張させたり、圧迫したりしたくないからなのだ。
しかし私の選択が、それ自体で多分に圧迫的であるならば、私の態度の問題などまるで些末なことになってしまう。
しかし一方で私はテキストに頭をやられている。
本読みの人なら分かってくれる人も多いかもしれないが、本は、錯覚ではあろうが、文字を頼りにその人の身体の中まで、頭ごと入っていける感覚になれる。
コミュニケーションが、非常な近さで起こっている感覚があるのだ。
その魅力に見事にあたってしまっていると、翻って現実世界で、例えば抱き合っている状態であるとかは、行けても零距離までであり、相手の身体の中にまで、精神の深いところまでは入れないことが、その物理的近さの「遠さ」が、物足りなくて仕方がなくなるのだ。
それは本当にさびしいほど物足りない。
だから私は人に対して欲がないのではなくて、反対に強欲すぎるのだろう。
コミュニケーションをするなら、完全にその人の内部にまで頭ごと入れるのでなければ不満足なのだ。
そういう形で頭をやられている人間は、例えば周りの友達が、家族が喜んでくれるからという理由でデートをしても、全く心が躍らない。
嬉しい、ドキドキする、楽しいではなく、
「付き合うということは、これを何度も繰り返すことなのか」
と考えると、うんざりしてしまう。
しかしその態度、姿勢は、社会を圧迫している。
これはどうしたらいいのだろう。
いや、どうすることもできないが、本当はその気もないのに、家族の手前、友達の手前、婚活をしている、恋人を探しているという嘘をつく人の気持ちがよく分かってくるようになった。
私も、恋人を探しているが、一向に相手が見つからない体で切り抜けようか・・・。