<2474>「しつこさという毒を」

 小学生くらいの頃だっただろうか。

 家族で田舎に帰省して、祖父母の家で、妹と一緒に遊んでいたときだったと思う。

 遊びの最中、何が気に食わなかったのか、そもそも何か気に食わぬことがあったかも今は定かではないのだが、妹に対して、

「それはどうしてなんだ」

と夢中で問い質し続ける私が居た。

 それがあまりに執拗だったのか、台所で祖母の手伝いをしていた母親が、止めに入った。

 

 私は何故、それから何を止められたのかが分からなかった。

 しばらく経って、祖母がいない局面に移ってから、改めて母親に叱られた。

 あのしつこさは相当なものだったと。祖母も私のあまりのしつこさにうんざりしていたよと。

 

 そこで私は、自分がしつこいこと、そしてしつこいことは人をうんざりさせるほど良くないことなのだと初めて知った。

 

 私は祖父という立場に立たされたことがないからよく分からないが、孫というのは手放しで可愛いものなのだとはよく聞いていた。その孫を見て私の祖母は心底うんざりしていたのだそうだから、しつこさは相当なものであったのだろう。

 

 これは無自覚のうちに私のなかに備わっていた、あるいは育まれてきた、一種の毒だ。

 

 それが毒であることを自覚した私は、時々失敗してしまうことはあっても、基本的に人に対してしつこさを発揮しないよう注意することが出来るようになった。

 

 しかし、無自覚のうちに元々持っていた、このしつこさという毒が、綺麗さっぱり消えてなくなってしまった訳ではないだろう。

 私はこのしつこさをどうしてしまっただろうか、と考えてみるに、それは勉強の形で解消されているのではないかと思い始めた。

 

 私は勉強が好きだ。もっと言うと、誰からも干渉されず、自分で計画を立て、その計画に沿って何かに黙々と打ち込んでいくのが好きだ。

 好きだからといって、何でもかんでも目から鼻へ抜けるように理解出来る訳ではない。

 必然的に、何度も何度も同じところへ戻ることになる。

 しかし本は、問題集は、何度も何度も同じところへ戻ってきて、何度も何度も分からないと言って跳ね飛ばされては、また何度も何度も戻ってくる、という経過を辿る私に対して、全くうんざりした顔をしない。うんざりした顔をしないどころか、全く何にも効果がないような、涼しい顔をしている。

 ああ、よく考えてみるまでは気がつかなかったけど、私はしつこさを発揮する場所を静かに見つけていたんだ、と思った。

 そこではしつこさも、毒にはならない。

 毒にはならないどころか学問は、そういう私のしつこさを丸ごと包み込んでまだまだ全然余裕そうである。そうしてごくたまに私のしつこさに対して応えてくれる茶目っ気もある。

 勉強することで、以前の自分よりも理解が進んでいることが理想で、もちろんそのためにこそ勉強をしているのだが、しつこさを発揮する先として、勉強という行為が存在してくれているだけでも大分有り難いことなのだなとこの頃は思うようになった。