何かを教える側に立つと誰と対峙することになるのか、
小中高大と、ずっと教えられてきた側の、自身と対峙することになる。
これはもう何度も感じていることで、
教えられてきた側の自身との話を進めなければどうもこれ以上先へは行かれないと思うことも多い。
勉強について言えば、小学校から高校の二年ぐらいまでは嫌いというか、興味がないという状態だった。
ただ高校三年になり、部活も終わるというようなところで、ちょっと勉強してみるか、と思って自分でやり始めたらとても勉強が面白くなってきたのだ。
大学へ行ってからも、授業に出ているときにはさほどおもしろくもなかったが、大学の図書館で朝から夕方まで自分で勉強しているのは途方もなくおもしろかった。
つまり、自分で何でもやり始めたらおもしろい、と感じている人間が、おもしろくないと思っている状態、つまり授業という状態に入り込むことには困難がともなう。
自分からのツッコミが入るからだ、、
それ、あなたにとっておもしろくない時間だったんじゃないの、と。
これはどう克服したらいいだろう。
絶対あり得ないし、それは学校である必要もないでしょう、というものを、私の頭の中での仮定なら自由だから持って来てみる。
学びたいことがある。
それは私にもある、生徒さんにもある。
で、各々が教室やなにかでそれをやっている。
本当に分からなくなったときだけ、私でなくてもいい、クラスメイトでも良いので、助けを求める。
助けを求められた人は、説明しようと思って頭を働かす。
自分が取り組んでいるものとは違う風が入って刺激にもなる。
そうしてまた疑問点がなくなれば各々の学びにかえる。
これは理想的かもしれないけれども「授業という意味」は霧散するかもしれない。
勉強はひとりでどんどんやった方が面白い。
しかしそれは「授業」という形とは矛盾する。
う~ん。
楽であるとか、楽しいとかいう理由で長くは続けていかれないものではないのかという気が、現時点ではしている。
いつまであるものかも分からない。
影響を受ける、ということだって、
強制されて受けるものでもないし、
あ、この人は素晴らしい先人だな、話をきいてついていきたいな、と思う人って、自分で決めなしょうがないじゃないですか。
それを、ちょっと違うかもしれないけれど、
「あたしについてきなさい」
という姿勢をしなならないのは変だと感じる。
変だと感じることが多ければ、それは行先を考えるということでもあろう。
自分が勉強して何かを授けるというよりは、
自分が勉強をしてそのものでその道をゆくという方向、
う~ん、自分が面白くないと思っていたものを授け続けるというのは難しい。