<2430>「太陽の塔という、常に新しい問い」

 

 太陽の塔は、常に、新しい問いとしてある。

 確かに技術は進歩した。技術は進歩したが、あなたたちはどうだ。あなたたち人間はどうだ。人間は、進歩したのか。それを人間の進歩と呼べるのか。

 

 技術には、価値観やイデオロギーというものはなく、ただ日々新たになっていくだけであるという。

 その勢いに人間は否応なく飲み込まれざるを得ない。そこに良いも悪いもない。

 ただ、その勢いに飲み込まれることを、「人間の進歩」と同一視していた万博の雰囲気が、岡本太郎には甚だ疑問だった。

 人間は、ちっとも進歩していやしない。

 

 岡本太郎という人は、一般的に言えば芸術家だ。

 だが、この表現は、太陽の塔は、明日の神話は、岡本太郎という人間を超えているという。

 

 芸術家であるということがただの画家であることだ、とは思わないのです。

 全体的な、普遍的な存在として生きるのです。

 そのためにも世界で起こった全てを知らなければならないのです。

 

 外国へ出、絵の世界のなかで、何々主義だ、何々派だ、とやっていたんでは、ちっとも絵なんて描けやしない。そう思って、マルセル・モースに会い、ジョルジュ・バタイユに会い、岡本太郎は、自身の必然を構築していく。

 

 そうして、「日本という泥」にまみれ、技術の進歩に圧倒され置き去りにされた人間たち、いや、生きとし生けるもの全てを背負って新たな神話を打ち立てようとした。

 

 今起きている全てのことを包み込む神話を新たに創造できなければ、この先に生き物の未来はないと確信したから。

 

 太陽の塔は、常に新しい問いとしてある。

 それは、お前の進歩なのか。

 この問いは、生まれる人間の数だけ、常に新しくなり、存在し続ける。

 

 人間が、その内部に持つ、創造性の塊を、無音の爆発として、全世界に開いていく。

 そういうことが、次々に可能になる世界、それが、進歩した世界ではないのか。

 

 人々が縮こまり、気力を失い、うなだれて歩く、そういう世界が、「人間が進歩した世界」なのか。

 

 この問いに、ぐいっと睨まれる。

 そうすると、おそろしくて、誰一人として、この塔を壊せなかったのだ。