<2368>「『道草』を観ました」

 あなたは御自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。ほかの詩と比べてごらんになる、そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自身をぐらつかせられる。では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。あなたは外へ眼を向けていらっしゃる、だが何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるきりです。自らの内へおはいりなさい。

      『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』(新潮文庫p、14,15)

 

 

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 『わかりません』に引き続き、こちらの方のブログで、そういえば『道草』を観たいと思っていたことを思い出し、昨日観てきました。

 

 いやあ、自分にとって切実な場面が多すぎて、苦しい映画でした。

 映画の前半は、自分の理想こそ達成されていないものの、圧倒的に幸せな世界、歓びしかない世界、楽しい世界。

 映画の話とは関係ないですが、私も、かつてこういう世界、何の不足もない世界にいて、しかしなおその場所で、

「私はこの、ただ幸せな世界、楽しい世界に留まることができない」

という声を、自分の内部で聞き続けていたことを思い出しました。誰の、何のための声だったのか。誰もが、そこに留まっていればいいじゃんと思うような、理想の世界に、私はずっとは居られないと繰り返し感じていたということは何だったのか。

 この映画の主人公も、どこかで同じ声を聞いていたでしょうか。

 

 絵を描くこと、また、絵を描くことに限らず、何かを創造することは、苦しみでもあるけれどもそれ以上に、圧倒的な歓びの世界だと思っています。

 一方で、創造の周辺にはまた、恣意的に、無基準に価値や価格が決まっていく世界というものが否定しようもなく存在しています。

 絵の創造の歓びとは離れたところで、ときには法外な値段をも付けられる世界というものが別にあり、その世界は、お金が大きく動くことで多くの人間を動かしていきます。

 ただ、絵が好きで、歓びのもとに創作をしている人間も、あまりにもその違う世界の波が大きすぎると、その世界の波にそのまま翻弄されざるをえなくなります。

 主人公はこの作品内で、売れるという形でも、売れていないという形でも、両方で翻弄されることになります。

 絵というのは描いていることが全てなのに、売れていないときは、価値がつかないということにより、自分に対しても、周りの人々に対しても、全てに対して申し開きが立たないような心情の場に、いつも立たされることになります。

 反対に、売れたときは、その価値というものに、自分を曲げて寄り添わなければならないという形で、翻弄されます。

 

 創造の歓びの世界と、恣意的に価値を決める世界とが、全く質的に異なる世界なのに、同じ現実の場所にあるということだけで、その2つの世界がくっついてしまうことに、これらの不幸はあるのだと思います。

 

 この接触の不幸さは深さを持ちます。深さを持つというのは、売れていない、つまり価値がつかない場合に、

「いいよ別に、価値なんてつかなくたって好きでやっているんだから」

という、静かな言葉が、価値の目で見ると、てらいやある種の嘘のようにしか見えなくなり、また、では売れて価値を持ったら良いかというと、そこには自分の歓びとは全く関係のないものに、価値がついたというだけで従わなければならなくなるという、どちらに転んでも不幸にしかならないという、出口のないような状況が現出するということを指して言っています。

 

 この深い不幸さは、映画のなかで、ヒロインの女性が底抜けに愛らしい存在であることにより強化されています。こんなに素敵な世界を失ってまで得るものが、主人公の進む先にあるかどうかが、全く分からないからです。

 

 質的に違うのでくっつけようがない世界がくっついてしまうことにより、起きてはいけない大きさの嵐が起き、現実の、些細な領域での、完璧なまでのかわいらしさ、愛らしさみたいなものは、全て破壊されます。

 

 ヒロインとの関係も途絶えた後、一度だけ主人公はヒロインに会って話をします。この場面で、ヒロインに謝らないでと言われた後、主人公は一切の言葉を発さず、ただ泣いているだけだったのですが、ここで主人公が一言も話さないのが私はとても良かったと思いました。

 というのも、ヒロインは、この創造と価値の嵐の世界に非常に近接したところにはいるのですが、それでもギリギリのところで外に居るので、主人公に語るべきことはいくらもあるのです。それは罵倒でも泣き言でも感謝でも冷めた言葉でも何でもいいのですが、とにかくヒロインには話すことがあるのです。でも、この嵐の只中にいて、翻弄され切って、周辺全てを破壊して、なおも業により絵筆を離せない人間が、ここでヒロインに言えることなど何も、本当に何もないのです。だから主人公はただ泣いていました。そうするしかないからで、掛ける言葉が浮かばないというレベルではなく、本当に零、何か言葉が零にならざるを得ない場所に、主人公は立たされていたのです。

 

 もう、絶望的な状況で、主人公には何にも残っているものなどないように思えます。

 

 でも、この映画はそこでは終わりませんでした。

 

 

 ラストシーンで主人公は、家の壁に絵を描きます。

 最初は荒れているのですが、だんだん静かに、集中して、自分の絵を描き上げていきます。

 この場面で私は、希望もなにもなくなったかに見える主人公の部屋に、物が静かに存在すること、そのことの本当に静かな強さを感じました。

 壁がある。ハケがある。絵の具がある。人間の身体がある。

 全て物です。

 物は、希望も絶望も超えた場所で、今日も黙ってここに存在しています。

 どんなに生きていけないように思っても、物は、ここに、黙って存在しています。

 その強さは、誰にも奪われることがなく、ここに存在しています。

 主人公は、嵐を経た末に、自分の身体、絵筆、絵の具、キャンバスという、道具の世界に静かに還って来て、黙って絵を描いていくのです。

 これからも、それは静かな強さで繰り返されると思います。

 なにもかも失った後でもそれは当たり前に、ここで繰り返されると思います。

 この静かなラストシーンには、とても力がありました。

 

 

 映画終了後、映画館では俳優の方々のトークショーがあったのですが、トークテーマのなかに、

「最後に主人公が描いた絵は朝日だと思うか、夕日だと思うか」

というものがありました。

 私は、観ているときにはそんなことは考えていなかったのですが、振り返ってみると、自分は完全に朝日のイメージとして捉えていたのだな、ということが分かりました。

 

 太陽も、いわばひとつの物です。

 人間が、悲しいとかもうダメであるとかいう心情を持っていることに、何のかかわりもなく太陽は、毎朝同じ場所に顔を出します。

 誰のもとにも、黙って、当たり前に、何にもなかったみたいに、新しい朝は来るのです。

 その静かさ、当たり前さが、太陽を眺めるときの、高揚感を作っているのではないかと、この映画を観て思いました。