<2561>「『かのように』再再考~想像的次元と現実的次元」

 宗教の事なんて考えなくてもいい、というような態度を取る人に対して、私は不満がある。

 それがしかも、他のあらゆる点では尊敬できる学者や研究者から発されていたりするものだから、何でそこだけ考えないで済ますんだとなおさら不満にもなる。

 曰く、現実を見ていないそんなものを信じる人のことなんかハナから相手にする必要がないんだ、無視していればいいんだ、と。

 

 しかし、いかに現実と符合していないことを主張していようが、実地で確かめることの出来ないことを主張していようが、信仰というもの、信仰という物語を持つものは、現実的次元に、ある種の変容を、それもときには大きな変容をもたらしているではないか、と私は思う。

 相当昔の、古い古い物語に思えるものが、いまだに人間の行動を規定し、あるいは変更せしめているではないか。

 

 そうしたら、人間を考えるにあたって、自分が信仰を持つとか持たないとかにかかわらず、宗教を考えることは避けて通れないことのように思える。

 信じている人を軽く見て馬鹿にしたところで、何の理解の進展もない。

 

 

 鷗外は『かのように』という作品の中で、国史における神話と歴史の問題を考えた。

 曰く、現実的次元で起きたとは考えられない、物語たる神話と、ある程度証拠などによって起きた可能性が高いと考えられる歴史とを、一緒に扱うことは出来ない。

 出来ないのだが、では神話を単純に省けばいいかというと、それは危険思想であるとの非難を受けるだろう、と鷗外ないし秀麿は考える訳である。

 そこで、かのように、という方法が持ち出される。

 つまり、実際にそんなことがあったとは全く信じられないのだけれど、神話というのは代々受け継がれてきたものであり、それを本当にある「かのように」扱いさえすれば、穏当じゃないか。そうすれば神話と歴史をまとめて扱って、国史の仕事もやっていかれるではないか、と考えるのだが、話はなんとも煮え切らないままで終わる。

 鷗外自身もこれで解決としては十分だ、とは思えなかったのであろう。

 

 今現在の私の考えは、神話などの物語を、別に本当にあった「かのように」扱う必要はない、というものになる。

 しかし、神話を抜きにしてしまったら、国の歴史を全部扱ったことにはならない、とも考えている。

 何故か。

 冒頭の話と関わるのだが、神話は、その物語の内容自体はとても実際に起きたとは思えないものであるかもしれないが、

「その時々の人間が何を考えていたのか」

という点、そして、

「神話を構成したことにより、現実に生きる人々の行動に、どのような変化が起きたのか」

という点から見れば、「かのように」を使わなくとも、確かに現実に関係のあるものとして処理することが可能になるからなのだ。

 

 つまり、人々の頭のなかにあること、決して具体物として外にあらわれていないものも、実際に現実に変容をもたらすのだから、それはまた実際に起こったこととは別の次元に存在すると考えた方がいい。

 

 こういう考えを持ったのは、中島隆博さんとマルクス・ガブリエルさんの共著『全体主義の克服』のp120、空海の想像力の次元の箇所を読んで影響されたことによる。

 

 つまり、現実の次元に、想像の次元を組み込んで、人間の全体というのを考えればいいと。

 何故なら、何度も言うように、現実に起きていない物語、頭の中にしかないものも、確かに現実を変容させるからだ。

 

 国史も、であるから、実証を重んじる次元と、それを受けて人間が編んだ物語の次元、そしてその物語がまた現実に跳ね返って来ることとをひとまとめにして記述する必要がある。

 そのうちのどれかが欠けても、国史を網羅したことにはならないと思える。

 神話と歴史とは、別の次元にあるものとして、そして相互に関係し合うものとして、同時に扱うことが出来るのではないか。