虚無は、零空間への再接続として捉えられるのではないか。
中沢さんの講演を繰り返し聴いてみて、そんなことを考えた。
皆さんは虚無の時間をどのように捉えているだろうか。
私は、今までせっかくずっと続いてきた、楽しかったり興奮していたりした時間が突然終わり、全てに意味を感じられなくなるようになる、絶望の時間だと考えていた。
しかし、しばらく人間をやっていると、この虚無の時間と、いろいろなものが掛け算されて興奮してくる時間とは、循環していることに気がつき始めたのだ。
そこへきてこの中沢さんの講演だ。
つまり、何かが私のなかで掛け算され、盛り上がる。それは、大変愉快で楽しいし、この時間がずっと続いてくれればと思うのだが、その場所は次第に意味が飽和するとでもいうのか、どこかで頭打ちになる。
すると身体は、脳は、一旦その飽和したものを捨てるか、更新するかして、いわゆる零空間、意味生成以前へと戻ってくる。その、意味生成以前に戻ったタイミングに生じる感覚が、虚無感なのではないかと思ったのだ。
虚しさって底というより中立地点のような気がするな。正負の感情の振れが完全に零になって、空白の場所に立ってる感じ。そこに一旦戻ってまた正負の波を起こしていくというイメージ。だからその状態を避けることは出来ないし避ける必要もない。マイナスの意味を持たせる必要もない。
— yutaro sata(1992-2092) (@soudaroune) 2023年1月27日
そういうことを考え始めたタイミングで、虚無はマイナスではないのかもしれないと思い出した。
ただの空白、意味生成以前の場所なのではないかと。
たしかに楽しかったり興奮していたりする時間が一旦なくなるのは残念だが、そこにとどまっているようにどうやら身体は出来ていない。意味を更新したがっているというか、先へ進みたがっているというか。
それで、先へ進むためには、一旦その飽和を零まで持ってこなければならない。
虚無はだから暗闇の底というより、一番白紙である場所、サラである場所なのではないかと思うようになった。
そう考えてどうなるのかというと、私は、虚無の時間の、何も思わなくなる状態について、何も思わなくなってきたのだ。この状態にかえってこなければ新たな掛け算が始まらないことが経験的に分かるようになってきたことも大きい。