自分のことはよく分からない。だから人から、
「あなたって、こういう人だよね」
「こういうところがあるよね」
というのをぽおん、と放られると、とても勉強になることがある。
自分自身を探る手掛かりをもらった、というような。
以前にも書いているのだが、まだ中学生ぐらいのときに、同級生にもらった、
「あなたって、生きてて楽しいの?」
という問いかけを、とても大事にしている。
なぜなら、生きていることに対して、楽しいと感じているのかどうかというのを上手く捉えることが未だに出来ていないからで、でもそれを不思議そうに問いかけた人がいたということは、生きてて楽しいかどうかを都度判断するのはごく当たり前のことであるのかもしれないからだ。つまりこれは私にとってとても不思議な、面白い問いかけであり続けているのだ。
今日はこの
「生きてて楽しいの?」
という問いかけに絡むと思われる記憶を2つぐらい思い出したので、書く。
小学生ぐらいの頃だと思うが、記憶が正しければ日曜の朝は、決まってアニメや、戦隊ものなどを観ていた。
毎週観ているのだから、当然ハマっているのだろうとぼんやり思っていたのだが、あるとき親に、
「あなたは多分そんなにアニメや戦隊ものが好きじゃないよね、なんとなく観てるんだよね」
と言われて非常に驚いたのだ。
というのも、私はそのとき、
「その通りだ、なんで分かったんだろう!」
と思ったからなのだった。
ぼんやりと自分でもハマっているつもりでずっといたものが、親にそう言われた瞬間に、何でハマっていないのが分かったのだろう、というかハマっていなかったのか私は、と瞬時に気がついて驚く、という体験をしたのだった。
ハマっていない、楽しいと別段感じてもいないものは、途中で観るのをやめるのかもしれない。ただ幼い日の私は、楽しいか楽しくないかは関係がないかのように、あるいはそんなことにはまるで気がつけないまま、淡々と毎週観ていたのだ。あの時間は何だったのだろう。今になってまたびっくりしている。
これも小学生ぐらいの頃のことだと思うが、週末はキャンプや旅行などに連れていってもらうことが多かった。
それで、旅の終わり際、例えば親が、
「あ~楽しかった。これで明日からまた仕事や学校なども頑張れるね」
と声を掛けてくれる。私は、
「うん」
と応えるのだが、週末に楽しいことがあったから、また頑張れるという感覚が、実はよく分からなかった。今でもよく分かっていないかもしれない。
仕事や学校という、毎週規則的に、それなりの分量でやってくるものの重さや憂鬱というのは、週末に楽しいことがあったとかなかったとかとはあまり関係がない、というか私のなかでは完全に切り離されて存在するという感じなのだ。
また、重いとか憂鬱だとか言っても、実際に行ってみると仕事も学校も、別にそこまで大したことがない日や瞬間もあったり、なんならとても楽しいときもあったりする。
これと関連するのかどうか、
「今度何月の何日に~があるから頑張れる」
「次の休みにはこれがあるから生きていられる」
みたいなことも、多分あまりピンと来ていない。
勿論、自身のために休みの日にあらかじめ、好きなイベントなどを設定することはある。しかしその日になって実際に楽しかったり、別に当初思っていたほどではなかったりとかいうことと、今日この空間にいることとが、そこまで密接につながっていないような感覚があるのだ。
だから私はきっと、楽しいことを知らない人間でもないし、楽しめない訳でもないのだが、他人から見るとその予感みたいなものが感じづらい、あるいはまったく感じられないのかもしれない。しかしそれは仕方がない。私もそんな予感みたいなものを感じられていないのだから。