<2326>「遅刻」

 夢や幻と遊び過ぎていたら、数年振りに大遅刻をかました。

 それは当然遊び過ぎていたらそうなるのが自明であるところを、本当にそうなって、なんでか分からないがびっくりした。

 

 高校時代は遅刻の常習犯で多分200回ぐらい遅刻していたから、なんだかそのときのことを思い出して懐かしくなったりして、急いで準備をしているこのタイミングで何を懐かしがっているのだお前は、と少し自分にイラッとするなどした。

 

 でも社会人になって遅刻をしない、特に仕事ではしないのが当たり前になっていって、それは別に良いことだから問題ないわけだけど、それが積み重なることによって、当たり前だ、という場所に上手く留まれず、

「遅刻、それは死」

のような考え方が知らぬ間に自分のなかで醸成されていて随分苦しかったんだなと思い知った。

 というのも、今回遅刻をしたことによって、

「遅刻、それは明確なミスであるが、しかし死ではない」

となって少し空気が通ったのだ。怪我の功名というやつだろうか。

 

 高校時代は、ある駅から学校まで自転車で通っていたのだが、遅刻もあんまり常習化すると、途中から、学校に向かう意味がぼんやりと分からなくなってきて、普通に寄り道したり、ほとんど漕ぐのをやめてただ自転車に座っているだけのような状態になることもしばしばだった。そのある駅から学校に向かう同級生というのも何人かいたはずだが、ちゃんと間に合うように急いでいる人は、私のそんな姿を見て、

「こいつは正気か?」

という視線をぶつけてきて面白いものだったし、また、

「ああ、あなたも学校に向かう意味が分からなくなってぼんやりしてしまった人ですね」

と言わんばかりに、私と並走してまともに学校に向かおうとしない人もいたりして、これもまた面白かった。

 

 遅刻というもののこの、圧倒的な申し訳なさと、自由の風が吹くこの感じ、この矛盾する感じというのは何でしょうね。決まった時間に決まった場所にいなければならないのに、そこにいない。なんならまだ家に居たりする状況って、めちゃめちゃ焦るけど、めちゃめちゃ自由な気持ちになるんだよな。高校時代はひょっとしたらそういう遅刻の両面性というか、魅力にハマっていたのかもしれない。