この前久しぶりに野球をやった。草野球ですね。
ボールに触って投げるのも十数年振りというような状況で、どうなることかと思ったが、とりあえずの形には収まった。身体の野球の蓄積というのは馬鹿にならなかった。
しかし準備面で言うと、正直なところ不足していた。
むろん準備はしていたのだが、それは、ある程度のところで動けるような準備であった。つまり、のめり込んだときの準備が出来ていなかった。ゆえに身体は翌日以降しばらくパキパキだった。
草野球であれ何であれ、スポーツの魅力的なところ、そしておそろしいところは、
「人をのめりこませる」
ところにある。ある程度のところで軽く動こうと思っていても、いざ試合が始まると、全開で動き出さずにはいられなくなる。
明日身体がパキパキになるからセーブしようなどという考え自体がどこかに消えてしまうのだ。
だから準備というのは、ある程度のところでなら動ける準備をするのではなく、完全にのめり込んでしまうだろうことを想定して、しなければならない。
それは、スポーツをしばらく離れてまた久しぶりに復帰して、という過程で初めて知れたことだった。
次もまたあると思うので、今から、のめり込んでも大丈夫なように準備をしていく。
それと関連して、日常生活だが。
日常生活を繰り返し行っていくためには、温存が大切である。
つまり、今日で全部やらない。使い切らない。無理をしない。
しかし、意識は「今」しか知らないので、気持ちが盛り上がってきたときなどに、
「今、このエネルギーを使い切らさせてくれよ」
という欲望が湧き起こる。
これには抗いがたく、翌日に負担が掛かることが分かっていながら、つい自身を、身体を蕩尽してしまう。つまり、やり過ぎる。
前まではこの欲望を丁寧に避けるか、抑え込むかして、温存だけで日常を送ろうと思ってきたのだが、またそれはある程度成功してきたのだが、
「今日で使い切らせてくれ」
という蕩尽の欲望に時々付き合うと、翌日は苦しいが、それにより人間が生き生きしだすことが分かったので、今では蕩尽の声を、毎回は聞かないが、時々であれば聞くようにしている。
蕩尽をしても大丈夫な身体、強い身体を作り、また、より混ざりあったバランス感覚を養っていくというのが今のテーマのひとつだ。