<2493>「よく考えろよ?」

 上手く眠れる日が何日か続くと、その後しばらくは上手く眠れない期間に入る、という流れを繰り返している。何が原因かは分からない。そういうリズムなのではないか。身体がカチッと音を立てて切り替わっているかのようだ。

 それでも、もっと若いときなら、

「そうかいそうかい、眠れないなら別に良いですよ」

と身体環境に対して拗ねて、徹夜をし、翌日ボロボロの状態で活動する、という過ちを犯してきたのだが、今はそのときよりも経験を積んでいるので、眠れなくても布団の上であくまでも粘り、僅かでも休息を獲得しようとする動きが出来ている。そのことによって翌日にボロボロになることもない。進歩したものだ。

 こうして身体に翻弄される日々を過ごすと、一体全体自分の身体環境というのは何なのかを考えざるを得ない。

 

 また、睡眠だけでなく、気分も頻繁に移っていく。しかも気分は睡眠と比較するともっとスパンが短く、1日のなかでいくらも浮き沈みがある。

 さっきまで最高の気分であったのに、数分後にはぐっと沈み込んでいることもしばしばだ。

 

 睡眠にしろ、気分にしろ、そういう動きをするのはごく当たり前のことだと思っていた。しかしそうでもないかもしれないと思い、家族とこのことについて対話をしてみたことがある。

 対話の結果として分かったのは、睡眠が上手く出来なくなる周期を迎えているのも、気分が頻繁に移り変わっているのも私だけであるということだった。

 

 それでは一体私は誰の性質を受け継いだのだろうかと思いたくなるが、まあそれはそれとして。

 よく、

「自分の頭でちゃんと考えろ」

であるとか、

「いろいろなことを考えることが出来る人になれ」

という話をきく。

 

 しかし、私の実感だけから言うと、いろいろなことをよく考えてみるという態度を自分自身で選び取ったという感じはしない。

 

 さっきの睡眠の話しかり気分の話しかり、考える姿勢を能動的に作っていったというよりは、考えざるを得ない身体環境に放り込まれた、という感覚の方が強い。

 

 もし私が、睡眠にも特に難を抱えず(思えばそれは大体小学生くらいから始まっていた)、気分もある程度安定している身体環境に放り込まれていたら、多分こんなに七面倒臭いことをいろいろとこねくり回して考える人間にはならなかっただろうと思う。

 

 つまり、考える人になれ、と人に要求したところで、考える人間になるかならないかは、ほぼ大枠はその身体環境によって決まってしまっていて、後から変わるなんてことはほとんどないのではないかと思っているのだ。

 

 よく考えるという姿勢は、選んだものではなく、ほとんど身体環境的に強制的に選ばされたものだとすら思う。

 それは別にいいことでもないし悪いことでもない。環境なのだからある程度抗いようのないことなのだ。

 

 私は今は、自分の身体環境がこのような様子であることを受け入れて、さて随分難しい様子をしているようだけど、どう付き合っていくのがより良いのかな、ということを考えられるようになっている。生きていくと当たり前にいろいろな経験が重なってくる訳だが、それに随分と助けられることも多いな、と最近は思っている。