時間とは身体を含む自然のことで、意識はそれを観察してそこに時間を発見しただけなのではないか。
というのも意識というのは時間を知らない訳ではないけれども、とても馴染みが薄いというか、断続的で、繋がるときにはいつも「今」であるという感覚を持っている。
当たり前だが、永遠も意識の産物で、というより、常に「今」だと感じている意識というものの別名が永遠なのではないか、と思うくらいだ。「今」から出るということがなければそこに永遠というものが想起されるのも必然ではないだろうか。
劫年とか、何千億何万年の果てとか、それは具体的な時間であるというより、時間的単位ではないということ、その実感であって、意識がもし具体的な身体、自然と同じように時間というものと密接であったら、永遠というものを想起出来ず、刻々と動く流れを直に、内から感じるだけになるだろうと思う。劫年などとは思いもよらないのではないか。
刻々と変化する自然を前にして、「今」に居続ける意識がある、つまり意識のありかたは非時間的である。
永遠とか神とかは、意識の必然というか、自己把握の基本的でかつ最終的な形なのではないだろうか。
私は特定の信仰などはないが、どの地域のどんな人々でさえも永遠とか神とかを想定するということに興味、関心を抱いてきた。まあ言わば特定の信仰とか集団とかは、たとい出発が永遠とか神とかであったとしても、その後の集団形成はもう社会活動の部類に入るというか、意識の究極的な自己把握とはもう間接的にしか関係がなくなっているから少し苦手だ。
私が必要とするのは、意識の別名が永遠とか神であるという感覚だけである。