<1117>「まじないが溶ける水」

 冷静な男はひとりで平気に溶けていた。

 もちろん砂糖もいらない。

 意識は富む。平べったくなる。

 まだらな席で、まだらな飲み物を持つ。

 男はこの後、十年先でまた同じ視線をのばす。

 記憶が私には何の関係もないことだった。

 手首が痺れる。それももはや何年前からか分からない。

 泡の表面。 渦。

 あなたが名刺を取り出す。

 あなたは今から名前になった。

 男はぼうっとしていた。動かない。

 時折煙を追っている。飲み物はいまや、香りを嗅ぐばかりで一体なになのか分からない。

 参っている。

 いや、この先、男はひとりでいる限り参ることはないのだった。

 代わりに何語か分からない呪文を用意していた。

 名刺がかわいたままでいたずらに回転している。

「あなた この箱 どう?」

 しかし、男は分からないものにいつまでもかかずらうのが分かる。何をか分かるためではないにせよ。

 そのためには呪文だった。

 そのためには、もはや香りの分からない、慣れ親しんだ飲み物だった・・・。

 

 陽気な会話だ。

 二日に一回は多いだろうが、一週間に一度は必要だろう。

 しかし今陽気さはどこかでつまらない。

 むろん、つまらないのは私だ。何故なら呪文を携えているのだから。

 読めないはずの文字が容器の水面に浮かび上がり、一層この時間はどこかへ固定されたままになる。

 どこかでまた何度も思い出すことになるだろう、なんとなくそのような気がする。

 して、思い出してもほとんど何も思わず、にもかかわらずまた静かに固まるだろうことも。

 なんだかよく分かる方の呪文と、いつまで経っても分からないだろう呪文を静かに抱え、男は飛び出して行った。

 どこに行くのだろう。また遊びに行くのだろうか。

 男は遊び、陽気さを取り戻していった。

 一度も彼のものであったためしがない陽気さを、いついかなる方法で取り戻したのか。

 なんだか気味が悪かった。一番気味の悪いのは自分だということ以上に気味の悪いことはない。

 男は悪態をつかない。それがどうした。ただそれだけのことだ。

 男は陽気だった。ひとりで呪文を抱えて。

 ひとりで平気で溶けてしまえるにしても、それは他の人と同時という訳にはゆかない。

 それで何を誘うのだろう。

 間違った香りを散らし、困惑しているだけの人。

 男は快活に歌う。人々はいぶかしむ。

 男は酒を飲む。いぶかしむ人が増える。

 時折呪文が静かに幕間をつかまえるのだ。