<145>「記憶に関する強迫観念」

 記憶に対する強迫観念みたいなものがあり、ついつい憶えすぎようとしてしまい(つまりいつでも沢山のことを想起出来るようにしておこうとする)、勝手に辛くなっていることがある。それはどこかの番組で見たことから始まったのかもしれないし、何かの文を読んだのかもしれない。しかしちょっと待て、そうやっていくつもいくつも常に想起出来なければ記憶に問題があるのだと、本当に自分で思っているか? 小さいときにそんなことを考えていただろうか。想起の量はその時々で限られるだろうが、結局憶えているには全部憶えているから心配ないし、ふとした拍子にあれやこれや実に様々なことを思い出すから大丈夫だ、と思っていてもやはり不安だ、普段は何にも点灯していないからだ。

 考えてみれば、記憶に問題があるという結論を下すのは(明らかにボケてしまっている場合は別として、その境目は)難しい。微妙な判定を必要とするとき、

「そうさね・・・。例えば、昨日食べたものを(時間をかけてもいいから)そっくり思い出せない人は、ちょっと危ないと考えていいんじゃないかな?」

と、専門家らしき人がポーンと例を提示する(こういうものを見ると、私の強迫観念は加速してしまうのだが)。しかし、その例を提示した専門家は、食べ物のことを考えるのが毎日の生活の中で何よりの楽しみになっていて、他のことは大して憶えていなくとも、食べ物のことだけは絶対に忘れることのない人だったかもしれない(つまり、自分の基準から例をスタートさせていたのかもしれない)。また、そんなことは一向憶えられやしないが、他の人からしたら無意味としか思えない数字の羅列は、まあこれでもかというほど憶えられる人もいるかもしれない。そういうとき、例えば、情報量としては圧倒的に数字の並びの方が多いとして、それでも、昨日の食事のことを満足に憶えていなければ、危ないということになるのだろうか? これはちょっと極端な例かもしれないが、現実には、ここまで極端ではないこうした微妙な記憶の方向の差異みたいなものは沢山あって、それをあるひとつの角度からだけ見ようとすれば、必ず失敗するのではないか、つまり、私が起こす強迫観念は(むろん起こされているということをも含む)、ひとつの角度からだけで記憶というものを測れるという神話から来ているのではないか。