<83>「寛容 遊び」

 何でも良いですよ、全然自由にやってもらってかまいません、それは全部受け容れるという意味ではなく、何を言われても起こされても私には何の関係もないということだったら・・・。寛容さであるか否かの見分けがつきにくい。しかし、ほのかに漂っているだけの拒絶の香りを敏感に嗅ぎ分けて、あ、これは間違いないと確信する、むろん証拠はない。全て解決したこと、もちろん解決だってありゃしないということは分かっていながら、

「考えたってしょうがないよ」

というところに落ち着いて、進みはじめることを願う、お前が考えようが考えなかろうが結果は同じじゃないか。考えたってしょうがない、私が考えたところで何にもなりやしないということがあまりに本当のことだとしても、じゃあ、やめてどうなるのかといえば、何もない、そして続く、私の歩みは・・・。目標に到達することをあてにせず考える、それは何の為か、それは問いが間違いだ。為にで思考することは不純ですらある(本当か?)。つまり、遊びにしてしまった。遊びにしてしまうという言葉、何故なら軽い意味に取られやしないかと思って不安になる、遊び人などなど。真剣であることと、真面目くさっていることとは何が違うのだろう?遊びは真剣にはなりえるが、真面目臭さとはまるで反対のものになる。どこを訪れようが私の居場所ではないという気持ちが悲しさだけでなく清々しさも伴っていて、その態度に窮屈を感じているのは相手の方だったりすることに、今更のように驚く、何回でも驚く。自分の家のように感じること自体が一種のお辞儀であったりする光景を、まるで想像することすら出来なかったのがこの私であり、またきっと、たったひとりであったろうと考えることによって傲慢になってしまうことを恐らく免れていないが、免れることすら望んでいないのがよく分かる(誰が分かっている?)。ハハハ、あまり高い声で笑わないでほしいとお前も言ったし俺も言った。偶然身についている好運を前に、それが俺の手柄というものなのだという嫌な、根拠のない思いと、後ろめたさが同居する家庭で、コーヒーは少しも苦くなかった。何事もなかったかのように動いている、そう思えるのは外から見ているからかもしれなかった。逆に言えば、外から見ているときに危機が明らかであるときはもう相当ギリギリの段階に来ているということなのかもしれない。つまり、為にということがあれば、どこを出発点にしてどこが終わりで、これこれのことが達成されたらもういい、ということがあるだろう、それがないのだから突発的、断絶、漏れ出しという形を取るのはやむを得ないことなのだ、そうか、どうもあの苦しそうな顔を見て、あの人が遊んでいたなんて軽々しく口に出せるようなものでもないような心持ち、だが、あそこまで根をつめて遊べば、視線は尋常一様ではなくなる、当たり前のことだ(いつ学んだんだ?)。経験からくるものではなさそうだ。どうして遊んでくれないの? あまりのしつこさに辟易しながら、決してそこから離れないという決意に感心を覚える。しかし、腕力が足りなかった、もちろん、腕力だけの問題ではないのだろうが。かつては、遊びと結びついた虚しさを意識せずにいられたと、漠然とした郷愁を遊ばせているが、果たしてそうだったろうか。くっきりと意識して掴むことが出来なかったのでそこはぼんやりとしていて、それは虚しさとしての形を取ることが出来ず、何かは分からないがおそらく決して訪れさせてはならないぼんやりとした映像の形を取って、それは危機という名で現れていたのではないか、つまり虚しさを経験していながら、それが虚しさだとはつゆ知らなかったのでは・・・。遊びが虚しいとして、そこから離れれば虚しさが失せる訳ではない。虚しさを虚しさと捉えているだけいくらか安心出来る。