参加していないという感覚。既に完成したところへ混じっていて、異物としてあるという思い。勘違い? ときには錯覚でもって何らかの連関を感じ、大いに盛り上がることもあるが(錯覚によって盛り上がることの何が可笑しい? 毎晩、官能がそこにあるかのような顔をして、身体を興奮させているではないか?)、錯覚が解けた後の、あの確からしい虚ろさ。こちらに軍配を上げるのはひとつの嘘だろうか。
知、というのが大袈裟ならば知識欲との別れ。それは参加の感覚にあるのではないか。立派な一員であり主人でもあり、分かることや分からないことが私の存在を揺らがせはしない、と思ったそのときから、学ぶことはなくなる。学ぶ? では、不参加感を抱いているお前は、何かそんなに大層なものを育んでいるとでもいうのか? どうかな。周りの人間(特に大人といわれる人たち)が、どうしてそんなに自然に、自分のことを一員だと思えているのかについての疑問が、溢れ出ているまま止まらないだけなのではないのか。内的な旅、いつまでも続けると思われるその・・・。