「じゃ、お金払ってくるから、ちょっとここで待ってて」
言い残すと親は足早に、受付のあるロッジへと向かっていった。
ぽつんと開けた広場のような所に取り残された私は、同じような年頃の子どもたちが集まって、近くでバレーボールをやっているのをそこに見留めていた。
「参加したいなあ・・・」
と思ったか思っていないかの間で、スーッとそちらに引き寄せられていった私を、その子たちは何も言わずに受け容れた。おそらく、
「入れて」
のひと言もかけなかったのではないか。
遊びに興じているうち、その子たちが、どうやら皆が皆知り合いである訳ではないことがなんとなく分かってきた。つまり、私のように、何らかの理由で暇を抱えていた子どもたちが集まってきて、その流れで自然発生的に生まれた遊びがどうやらバレーボールだったらしいのである。ボールは誰かが持っていたのだろう。
そのまましばらく遊びに混ざっていると、
「帰るよ」
と親が迎えに来てそのままスッと帰ってしまう子がいたり、また新たに、先ほどの私のようにどこの誰かも分からない子どもが自然に遊びへと混ざったりするような光景を、いくらか目にすることが出来た。
「仲の良い友達と遊ぶ」
のが通常の遊び方だった私にとって、この体験は爽快であった。どのメンバーがこの遊びを構成しているかということは全く問題にならず、自由に人が出たり入ったりし、そこの流れの中にいても、いたたまれなさを感じることがないという、体験したことのない遊び空間にいるのはとても気分が良かった。部分々々の個性がどうとか、そんなことはまるで問題にならない、ある種ひとつの生命体のような遊びの形式に触れ、
「遊びそのものになるとはこういうことか」
と、長年の疑問の答えを得たような気になった。
「さあ、終わったからもう帰るよ」
はーいと言って、特に別れを惜しむ素振りもせず、スーッとバレーボールの輪の中から外れる。私がいようがいまいが、何事もなかったかのようにまた同じように続いていくバレーボールを、車の中から眺めていた。不思議と寂しさは襲ってこなかった。