「・・・なるほど」
遊びそのものの存在へと再び戻っていくことを目標に据えていたところへ、過去の経験が何がしかの手がかりをもたらしてくれたような気になっていた。
人が遊びを持ってくる主人であるのではなく、人が集まることによって自然そこに遊びが醸成され、いつの間にかその遊び自体が主人となり、人はそれに溶けていくだけという、遊びそのものへの回帰法。
理想は赤ん坊、幼児のように、遊びそのものでありながらそのことには気づいていない状態へと戻ることだが、その手前の訓練状態にある身としては、最適な収穫が得られたのでは、などと思う。
そんなこんなで電車に揺られながら、周りの乗客を見まわす。何かに熱中している人もいないではないが、少数派。大体が退屈そうに携帯に目を落とすか、外を眺めるか。
「遊びに恰好の場ではないか」
と、反射的に思う。が、誰も遊び合いはしない。
むろん、条件は悪い。溶ける能力を抑え、自他の分別をきっちりとつけた大人が大勢。しかもここは車内という公共の場。あまりにも面識が無さ過ぎる集団。簡単に遊びが醸成される訳もなし。そもそも騒がしい遊びはここには向かない。
しかし、勿体ない。幼児のようには出来ぬとしても、大人とて人間。条件が整えば、また、個人というものを全面に出さなくても良い場が用意されれば、遊びに興じられるはず。
「りんご」
小さくつぶやいてみる。目の前のサラリーマンが訝るような目を向けてくる。
「りんご」
また小さい声で、しかし今度はハッキリと。
「ゴリラ」
なるほど、そう来たか。りんごと聞いて何を思うのか、様子を窺うという遊びをしてみたが、このサラリーマンはしりとりと捉えた訳だ。
「じゃ、私はここで」
しばらくしりとりに興じた後、目当ての駅でサラリーマンは降りていった。別に、勝負という勝負でもない。遊びも、工夫のない、古典的なものになったが、
「素性を出さなくて良い場では、誰でも自然に遊べるのではないか」
という感覚を強められただけ良かったのではないか、と思える。
「じゃ、ここで」
で終われる出入りの自由さ。そこから新たな参加者が、生まれるもよしまた生まれないも良しだ。
遊びの醸成されやすい場、参加しやすい状況などについて、なおも考える。