<2859>「『新宿単独’24』」

 シアターマーキュリー新宿にて。

 

 1.『黄声』~立川吉笑

 2.『前厄の記録』(トーク)

 3.『お血脈』~立川笑王丸

 4.『ぞおん」~立川吉笑

 5.『カレンダー』~立川吉笑

 

 

1.『黄声』

 初めて聴いたので、正確なタイトルは分からなかったんですが、インターネットは必ず詳しい方がいるので、記録を取っておくのにとても助かりますね。感謝いたします。

 

 吉笑さんの、論理を詰めていくような噺とはちょっと違う、力業っぽい噺。

 演技で恥ずかしそうにしていたのか、本当に恥ずかしかったのかは不明。

 

2.『前厄の記録』(トーク)

 前厄のためか否か、次々に降りかかる災難。

 最初は、冷凍チャーハンとか、将棋アプリのバグとか座布団を忘れたとかのかわいらしいエピソードが続いて、なるほどこんな感じかあと思っているところへ来ての、追徴課税やら、単独の拠点にしようと思っていたシアターマーキュリーの使用不可やら、爆弾が次々に投下された。今日が初回にして最終回と聞かされ場内騒然&笑い。

 

3.『お血脈』

 前座の、おそらく笑王丸さん。

 声がとても綺麗で耳心地のよい語り手。

 軽快な古典などがとても似合いそうだと思うなど。

 

4.『ぞおん』

 生で聴くのは随分と久し振りだったのでは。

 鳥瞰が行き過ぎて逆に見えない、などのくだりは前にもあったかな?

 やっぱりおもしろい。

 

5.『カレンダー』

 『黄声』と同じく初めて聴く。タイトルを書いてくれている皆様重ねて感謝いたします。

 

 論理を詰めに詰めて最後どうやって回収していくのかなあと思いながら聴いていたら、もうそれどころじゃなくなって最終的にどうでもよくなるという落語的世界。冷静になって振り返るとおかしなところが出てくるかもしれないが、冷静になどならなくてよいのです。世界に乗っかることが出来れば。

 

 また何か行きます~。

<2788>「立川吉笑真打計画10」

 

 行ってきました~。

 吉笑さんの落語を聴きに行くのはちょうど一年ぶりぐらいでしたね。

yutaro-sata.com

 

 最初は吉笑さんの『親子酒』。

 真打昇進が決まったということで、多分いろいろなところで古典もやられているのだとは思いましたが、私自身が吉笑さんの古典を聴くのが初めてでしたね。

 この日のシークレットゲストたる志らく師匠が後のフリートークのコーナーで、こういった古典の演目は、本当は歳を取ってからでなければ出来ないものなんだけれど、落語家である以上は早くやってみたくなる、でもそのままではとても出来ないからギャグをふんだんに織り交ぜながらやるんだ、というような話をされていましたが、吉笑さんの『親子酒』もまさにそういう試みという印象でした。

 あいだに『ぷるぷる』などの要素が挟まりながらの『親子酒』は、馬生師匠などで聴き慣れているものとはまた違った新鮮さがあり、面白かったです。

 

 次は志らく師匠の『火焔太鼓』。

 こちらも、志らく師匠がやっているのを初めて聴くことが出来ました。

 これもまた後のフリートーク内で、自分が若い頃にギャグをふんだんに交えながらものすごいスピード感で行って爆笑をかっさらっていたときのイメージと、今の自分とのズレが大きくて、イライライライラしながら演じているんだ、という話をされていましたが、その姿が、談志師匠が晩年になって、どうも違う違うと思いながらイライラしていた姿と重なるところがあり、ひとり謎の感動を覚えていました。

 

 最後は吉笑さんの『乙の中の甲』。

 この日は初めて尽くしで、この噺も初めて知ることが出来ました。

 吉笑さんお得意のイリュージョンが炸裂している作品ですね。古典だと『粗忽長屋』や、夢が絡む噺の数々を想起するような感じです。

 この話は割と新しいのでしょうか。吉笑さんの創作のなかでも、より設定の複雑さが増しているように思えます。

 これほど複雑だと聴衆を置いてけぼりにしてしまいやしないか、という心配もなんのその、後半に向かうにつれて笑いの量が多くなっていくのはさすがだなあという感じです。

 聴衆の側にしっかりと吉笑さんのスタイルが定着していること、また、噺のなかでの繰り返しの部分が、しつこさを感じさせず、むしろ笑いを増幅するためのステップとして機能しているのが見事だと思いました。

 

 また、今度は一年と間隔を空けずに吉笑さんの落語を聴きに行きたいものです。

<2600>「『A』~アジアンドキュメンタリーズ」

asiandocs.co.jp

 

 私は当時まだ3歳か4歳くらいのものだったので、リアルタイムの空気感というものはほとんど分からない。

 ただ、すごい騒動だったのだという話を、親から聞いていただけだ。

 

 なんとなく、触れるのがこわいというか、触れてはいけないような気分もあって、オウムに関するものは特に見たり調べたりもしてこなかった。

 

 ふとしたことで、このドキュメンタリーを見た。

 

 見て思ったのは、

「これは、数千年単位、あるいは数万年単位の、古い、そして普遍的な問題だ」

ということだった。

 20世紀後半にだけ限定される問題ではないと思った。

 

 つまり、現世否定的な部分が人間には必ずあって、またそのなかにある、現世とは別の場所に「本当」を見て、そこに向かって一心に修行し、現世の方には目もくれないという、そういう人間の過激化の方向というのは、今までも、これからも、綺麗に拭い去ることができない、という問題があったのだ。

 

 オウムの一連の事件に新しさがあったとすれば、それは、

「人間の進歩によって、こういう問題には付き合わなくてよくなるんだ」

というお話、思い込みが、見事に破られてしまった、というところにあるのかもしれない。

 

 人間社会は、個人は、こういう現世否定的な、いうなれば陰の部分から自由になることはできないんだということを思い知らされる。

 

 穏やかに社会と調和しているように映る仏教だってキリスト教だって、必ずこういう過激な部分を持っていて、それが何千年というときを越えて、今にも生きている。

 この問題がいかに人間の根本とかかわっているのか、ということの良い例ではないだろうか。

 

 

 このドキュメンタリーで印象的なのは、まず第一に教団側とマスコミ、警察、一般人との間で、コミュニケーションが失敗し続けていることだ。

 

 それもそのはずで、現世肯定をもとにする立場と、現世否定をもとにする立場の断絶というのは決定的であり、そこにコミュニケーションの成り立つ余地というのは少しもないからだ。

 

 例えば現世肯定同士で、その肯定の仕方がどうにも違っている、というのであれば、そこにコミュニケーションが成立する余地はある。

 

 だが、そうではないのだ。なのでこの両者は、常に緊張関係に置かれ続けることになる。

 コミュニケーションの余地のないところに、コミュニケーションが成立するはずだという思い込みを持ち込み、最終的な解決を得たいと思えば、その帰結は、潰し合いという形を取るしかないところまで行かざるをえない。

 

 一連の事件の勃発も、おそらくそれ以上の意味はないのだと思う。

 

 もうひとつ印象的なのが、信仰に際しての、師弟の問題で。

 

 ドキュメンタリーに出て来る人の話の中で、

「尊師(麻原さんのこと)がどんな人間であるかは関係がない」

「修行のためのシステムがここ(オウムのこと)より整っているところというのはおそらくないんじゃないか。だからここにいる」

というような話があった。

 

 つまり、信仰というのは、ひとえに、信じる人の問題であり、信じるという形で生きることを切望している人が、いつのどの地域にも必ずいて、いわゆる教祖と言われる人は、その切望に応える、また応える形での仕組みを作れればそれで良いのだということが分かる。

 

 なので、

「あなたたちはそんなにも崇拝していますけれども、あの人はそんな崇拝されるような人ではないんですよ」

という暴露を繰り返したところで、信仰する、という形で生きる人にはそれは何の意味も持たないのだ。

 

 「蒟蒻問答」という落語がある。

 修行者が、こんにゃく屋のおやじさんの適当な身振りを見てすら、そこに何か深いものを読み取っていく、という、なんともおかしみのある話なのだが、なんのなんの、これは信仰というもの全てに通ずる姿なのだ。

 対象が立派であったり、深かったりする必要は全くなく、

「私が深さをそこに見ることが出来るか否か」

だけが、修行の、信仰の問題なのだ。

 

 

 オウムを解体することにより、現代に生きる私たちは、

「またオウムが何かするんじゃないか」

という恐怖感とは付き合わなくてよくなったかもしれない。

 

 しかし、現世否定的な、しかも過激に現世否定的な部分が人間にはあり(誰も例外ではない)、そういった人間の陰の部分と付き合っていくことは、おそらくこれからもずっと終わらないだろう。

<2344>「立川談笑・吉笑親子会に行きました」

 

 今日はこの落語会に行ってきました。多分落語会自体が相当久しぶりですね。

 何年か前に吉笑さんの『現在落語論』のイベントが毎日新聞社でありましたね。吉笑さんの生の落語はそのときに聴いて以来だという気がします。

 

 NHKで新人落語大賞を受賞した後ということもあり会場も温かい雰囲気。

 演目は『一人相撲』。

 『ぞおん』や『ぷるぷる』のように、言語と映像という差異はあれど、その制限、不自由から始め、何とかそれを想像(および妄想)で埋めていくという、マクラでも触れられていたような、なんとも吉笑さんらしい発想の新作落語。こういう世界が深められ、新たになっていく未来を想うと、今からとても楽しい気持ちになりますね。

 

 談笑師匠は『子別れ~昭和編~』

 古典を踏まえた作です。

 トークコーナーで、会場の質問に答えていたのですが、その質問のうちのひとつがたしか、

 「自分について何か疑問に思うところはありますか?」

というようなものでした。

 談笑師匠は、自分は落語家で間違ってなかったのか、もっと他に何かあったかもしれない。それから子どもがいるけれども、子どもにとっては父親が落語家をしているということ、それでいいのかと考えることはある、という話をしていました。

 『子別れ~昭和編~』は、自分が家族を上手くやることが出来なかったと後悔している人が主人公の話でした。先の質問と地続きのようなこのお話は、最初から準備されていたものなのだろうか、それとも質問を受けてこのお話が選ばれたのだろうか、どちらにしても素晴らしい流れだなと思いました。

 

 談笑師匠のお人柄のもと、吉笑さんが自分の持てる世界を存分に拡げていこうとしている、その師弟の在り方が直に伝わって来る、素敵な落語会の時間でした。

 また以前のように何か落語会を探してみようかしら、などと思っております。

<2286>「試し酒と虚空蔵求聞持法」

 試し酒という落語がある。

 近江屋の旦那が外回りの一環で、ある店に寄り、そこの旦那と二人話し込んでいる。

 そこの旦那は近江屋の旦那にゆっくりしていってくれ、久しぶりに一杯やろうと言うが、近江屋の旦那はまだ仕事もあるし、外に下男も待たせてあるから、また今度のことにしましょう、と言う。

 とふと、近江屋の旦那の方から、そういえば今外に待たしてある下男というのはべらぼうに酒が強いんです、という話が出る。どのぐらい強いのかというと、聞いた話だがいちどきに5升は平気で飲むんだと。

 するとそこの旦那はいくらなんでも5升はないでしょう、それならその下男をここへ呼んで、本当に5升飲めるかどうかひとつ賭けをしましょう、と持ち掛ける。

 下男は酒が好きだからこの賭けの話を嬉しそうに聞いているが、自分とこの旦那が賭けに負けたら莫大な金を払わなければいけない約束になっているのを悟り、真剣な顔つきになって、ちょっと表へ出て考えてくるから待っててくれ、と言う。

 決心がついたのかしばらくして下男が戻ってくる。酒を飲む。どんどん飲む。本当に5升飲んでしまう。近江屋の旦那は賭けに勝ったわけだ。

 負けた方の旦那もびっくりして、下男に質問をする。お前はさっき表へ出て考えると言ったけど、なんかこれをしておけばいくらでも飲めるとかそういうまじないでもあるんだろ? それを教えてくれと。すると下男は笑って、いやあ今まで5升と決まった酒を飲んだことがなかったから、本当に飲めるかどうか、さっき表の酒屋で試しに5升飲んできたんだ、と・・・。

 5升どころか都合10升も飲み干していましたというオチがついてこの話は終わる。

 

 私は比較的この話が好きで何回か聴いてきたのだが、いつもただ観客の立場で、またはどちらかといえば下男よりも、近江屋の旦那とかその店の旦那とかの立場に立ちながらこの話を聴いてきた。下男の側に立ってこの話を聴いてきたことはなかったのじゃないかと思う。

 しかしこのおかしくも真剣な下男の気持ちが最近ふっと分かるようになった。

 

 虚空蔵求聞持法という修行がある。

 空海さんが行ったものとして有名だろう。

 私は、ずっとこの修行に憧れている。進退窮まり、どうにもならなくなったらこれをしようと半ば本気で思っている節がある。

 しかしこの修行、成就せずに失敗したらそこで死ななければならないという。

 ちょっと待ってくれ、死ななければならないのか、確かに進退窮まったらやると思っていたけれど、死ななければいけないとしたらどうだろうな、出来るかな、意志が強ければ出来るという訳でもなさそうじゃないか? ならちょっと1回修行という形式の外で、同じことが身体的物理的に可能か試してみようか・・・。

 と思考が転々としたところで、急に試し酒の下男の気持ち、阿呆だなあおかしいなあとしか思わないで聴いていたあの話の、下男の気持ちが急に分かるようになったのだ。

 そりゃあ出来るだろうとは思う、でも万が一ということもあるからちょっと別のところで試させてくれ、と。

 いや、試しに出来たらもうそれは成就したっていうことなんじゃないの、じゃあさっさと本番に入れば良かったじゃない、というのは、外から見ているときの話で、いざやるとなったらそのお試しは必須であるように思えてくるという、なんだか、この試し酒っていうのはただおかしい、とてつもない下男だな、あはは、というところだけには止まらない話だぞ、ということなどを感じ始めたのだった。

<404>「俺が一番上手い、という据え方」

 「俺が一番上手い」

と言った。それは、美学であるというよりほかなくて、というのも、それはどこまでも無用な追いこまれであるからだ。そんなことを言わずに謙虚に、また、謙虚とまではいかなくともただ普通にしていれば、余計なプレッシャーを、批難を、嘲笑を浴びなくて済む。それに、無用な追いこまれであるという言葉の意味には、それをしない他の人たちが決して楽をしている訳ではないということも含まれている。俺が一番なんだと言って徒に追いこまれなきゃいけない理由もないし、それをしないからといって、その人がズルをしていることにはならない。

 俺が一番上手いと言う。無用な追いこまれだ(無用であるから美学だ)。何故なら、

「俺が一番上手くはあり得ない」

からだ。客観的に見て、他の人より劣るからということではなく、単純に技術が足りないからということでもなく、確かに上手いけれど、一番は他にいるからということでもない。一番というものを数値などで客観的に決められない世界において、観賞者は、皆めいめいに自分の心の中だけの一番を持つようになる。つまり、どんなにか素晴らしいと認められている人、そんなの決められないけど、決めるとしたらあなたが一番じゃないか、と言われている人でも、ひとたび、

「俺が一番上手い」

と発言すれば、相当数の反感を集めることになる。ということは、無用に追い込まれること必至な言葉即ち俺が一番上手いなのである。

 それでも、言う。それは無用かもしれないが、いや、無用だからこそ、生きるひとつの態度になる。そんなことで無駄に追いこまれる必要はないのに何故、と問うてみたところで仕方がない。必要などというところで動いていないからだ。そして、どうしようもなく、私もそうでありたいと思っている。

<147>「黄金餅、現実的でないもの」

 現実感のないもの(現実にないものではなく)は、いくら集めても満足できないし、不安もなくならない。だから、あんなに沢山集めておかしいのじゃないかと言っても仕方がない、おかしいのは本人だって分かっているはずだ、しかし訳も分からないほど集めないではいられない。さっき不安はなくならないと書いたが、現実感のないものは不安と相性が良いとさえ言える。得体の知れない不安に襲われているときに狂ったように掻き集める対象としては、現実感のないもの程よく似合う。現実感がないからこそ信奉し、信奉したからこそ大量に集めたものが、ついにあんころ餅ひとつほどの現実的な充足すらもたらさなかった。作った人は特に深い意味を込めていなかったかもしれないが、金を食い物で包んで飲み込もうとするシーンは何かひどく象徴的であるような気がした。代わりに食料を(腐るのも気にせず)気が変になったかと思う程沢山溜め込むことはおそらくない、それはあまりに現実的過ぎるからだ。