<3021>「『かいじゅう』」

 新宿K's cinemaにて。

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 毎日、毎日が大舞台だ。

 

 それは、表現に掴まったものを待つ宿命。

 

 俺は、いつかこいつに食い潰されてしまうのかもしれない。

 

 

 絵を描くとき、西村さんはうなり声を、笑い声を、悲鳴をあげる。

 

 かいじゅうと名指される、その存在の、際の際のところから、

 

 どこへ向かうともしれない声が、溢れ出す。

 

 声は、身体を駆動する。

 

 その働きを越えて、声は、そのまま、表現へと変換される。

 

 泣き声が、笑い声が、怪物の唸りが、

 

 そのまま、色、線の混ざりとして、眼前に現れる。

 

 

 西村さんと、西村さんの母との二人きりの生活は、その底にいくつもの危うい契機があったことを包んで、平穏だ。とても静かだ。

 

 私は、私の絵を見に行かない。

 

 何だろう、私の人生って。

 

 かいじゅうは、森の奥深く、誰にも知られない場所で、

 

 しずかに、たばこを吹かしている。

 

 乗り越えなければならない、危うい地点が、この先に、一体いくつあるのだろう。

 

 知らない。

 

 私は舞台に上がるだけ。

 

 毎日、毎日が大舞台だ。

<2985>「『HEAT』」

 アマプラにて。

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 ここには、勝者はいない。

 

 死人が、死人を追い掛け、死人と連絡を取り、死人同士が、殺し合う。

 

 カフェで、刑事と犯罪者が向かい合う。

 

 普通の男のように、普通の生活をしろと?

 

 何かがあれば、すぐに駆けつけ、

 

 何かがあれば、すぐにどこかへ飛ばなきゃいけない人間の、

 

 普通の生活って、何だ?

 

 さあ、ゲームをしよう。

 

 死んだ人間同士、

 

 銃口を向け合うことでしか、生きることを確認できなくなった人間同士、

 

 ここでゲームをしよう。

 

 お前のことは絶対に、俺が殺す。

 

 さあ、始めよう。

<2948>「『霧の淵』」

 kino cinema立川にて。

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 世界から、全く切り離された場所で。

 

 あまりに静かすぎる、美しく、平穏な場所で。

 

 私はいつまでも生きていくのだろうか。

 

 もうここで一生をほとんど過ごし切ってしまった者。

 

 いつも同じ景色、同じことの繰り返し。

 

 若者のように活発に動き回るでもないが、ここにとどまるか、出て行くか、考えて揺れる者。

 

 旅館をやめて、この村を出て行くとしたら、あなたはどうする?

 

 それらの世代の異なる大人の姿を、黙ってそこに存在する風景を、イヒカは丁寧に見つめてゆく。

 

 将来何にでもなれるし、何でもできるからなあ。

 

 大人たちは言う。

 

 私と、あなたと、歳が違うだけ。同じ人間ではないか。

 

 将来何でもできるって、何だろう。

 

 私には、この場所しかない、というのは。

 

 この場所が一番必要な場所だ、というのは。

 

 いつ定まるのだろう。

 

 完璧にその場に定まりきっているように、子どもからは見える、様々の年代の大人だって、定まった場所から、時々振れそうになる。

 

 もうここに、とても居られたものじゃない。

 

 思い直し、縁側で、音楽のボリュームをあげて、まどろむ。

 

 イヒカには、旅館が必要だ。

 

 しかしイヒカだって、いつ振れるか分からない。

 

 母親は、イヒカを探している。

 

 イヒカは、何事もなかったかのように、あの村の、旅館にすっと戻るのかもしれない。

 

 もう一生、戻らないのかもしれない。

 

 その運命は、一体、いつ決定されるものなのだろうか。

<2907>「『ソウルメイト』」

 アップリンク吉祥寺にて。

klockworx-asia.com

 

 見てきました。

 

 例によって本編に関わることを書くので、これから見る方はお気を付けください。

 

 

 

 

 

 

 

 10代の、それこそ、

「魂が本当にひとつになっている」

ような時期から、20代、お互いの仕事とか生活とかの背景が変わってきて、あのとき魂がひとつになっていた頃の二人を再現しようとしても、もうそれは無理になっていて。

 

 そして、それからお互いに試練を越えて、大分大人になって、二人とも穏やかになってきたな、そうそう大人になるってこういうことだよな、と、現在の自分と重ね合わせながら見ていた。

 

 が、二人はそういう形で、良い大人として、お互いがお互いを尊重し、穏やかに関係を築いていくようなエンディングは迎えなかった。

 

 親友でありながら、全く違った個性を持っていた二人は、終盤になってお互いに奇妙に似通ってくる。

 ミソはハウンのように。ハウンはミソのように。

 

 10代のころ、二人でひとつの魂を作っていた。

 それは、その後の各々の成長の過程で、分離し、違いを認め、お互いに自立するはずだった。

 

 でも、二人は、段々本当に、一人の人間のようになってくる。

 

 別々に存在することなど不可能だと言わんばかりに。

 

 その帰結として、私にはそれがおそろしいほど自然なことに思えたのだが、ハウンが死んでしまう。

 

 皆が違う顔をしているのは、皆が別々の生を生きるためなの。

 ハウンの母は言う。

 

 同じ生を生きようとし始めれば、

 魂を本当にひとつにしようと思えば、

 どちらかの肉体が、消えるところまで、行かなければならない。

 

 

 この映画は、バッドエンドだったのだろうか、ハッピーエンドだったのだろうか。

 私にはその判断が今のところできない。

 

 魂がかつてひとつであって、それによって生きてきたこと。

 ひとつである状態を守りきれなかったのを、本当にまたひとつにするために生きようとしたこと。

 

 それは、人生の、成功や、失敗という枠組みを超えている。

<2901>「『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』」

 アマプラにて。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07FMJQ1ZY/ref=atv_dp_share_cu_r

 

 映画を見ていて一番興味深かったのが、

 「チャーチルの素質や能力をよく見極め、その力量を一番認めていたのは、英国の仲間ではなく、敵であるヒトラーその人であった」

ということだ。

 

 チャーチルは過去に大きな失敗を犯していることもあり、あまり議会の面々からは良い評価を受けていない。

 普段は酒ばかりのみ、感情を露わにし、周りの人を怯えさせている。

 とてもリーダーとしての器にあるようには思えない。

 

 ハリファックス卿やチェンバレンには完全に見限られており、いつ失脚してもおかしくないように見える。

 

 しかし、まさに敵であるはずのヒトラーが、正確に言えばヒトラーの、チャーチルに対する評価が、流れを変える。

 あいつは、ヒトラーが、おそれるほどの男だと。

 

 

 歴史上の、片や英雄、片や大悪党。

 ただ、チャーチルとヒトラーは、人間的にすごく近いところにある二人だというような気がした。

 

 いつも怯えていて、震えていて。

 そして、徹底的に言葉や、演説にこだわっていて。

 その怯え、言葉へのこだわりの両方から生み出される、扇情的な語りは、人々を動かす力を持っていて・・・。

 

 どこか精神的に通ずるところがなければ、ヒトラーは、この、チャーチルという人の持つ凄みを正確に掴むことはできなかったのではないか。

 

 リーダーを選ぶ営みというのは不思議なものだなと思う。

 誰もが認め、この人ならと皆が思える人が、通常はリーダーになる。

 しかし、リーダーに相応しい人が当たり前にリーダーに選ばれるという過程に、時々、人々は疑問を持つ。選ばれようとしている当人ですら何かしらの違和感を抱く。

 

 そういうときに、どこから出たのか分からない、異形の姿をした人間がやってくる。

 誰よりも大きな不安を抱えて。

<2885>「『明けまして、おめでたい人』」

 アップリンク吉祥寺にて。

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 この予告を、おそらく1か月半前くらいにたまたま見て、

「どんな話かは分からないけど、ここには何かあるぞ」

と思って、昨日見に行ったのだった。

 

 何かがあるどころではなかった。

 良い意味で、だと思うが、ずっとこの映画を引きずっている。

 

 

 ここからは、本編の内容を含むので、何も知らずに見たい方はお気をつけください。

 

 

 

 

 いろいろ、特別若い頃の、どうしようもない部分とか、でも楽しかったりとか、焦ってたりとか、そういうディテールの部分もとても素晴らしかったのだけど(映画的に、セリフを立てるような方法を全く排除して、普通に生活してしゃべっている人をそのまま録っている感じとか)、一番まともに食らってしまって、今でもまだ上手く整理がついていないのが、

「人との付き合いで、相手の核に触れる場面、相手の人生の軌道を変える場面に出くわすと、途端に急ブレーキがかかる」

主演の山脇さんの、生き様に関する部分だ。

(この日は出演者によるアフタートークがあったのだが、この映画はほぼ、山脇さんに起こった実話を元に構成されているという)

 

 山脇さんと良い仲になる女性とのシーンの数々。

 二人はとってもお似合いだし、楽しそうだ。

 しかも山脇さんはいい男だし、盛り上げ上手だ。

 でも、山脇さんは、絶対に相手の核の部分には踏み込まないし、ずっと周辺だけを回っている感じがする。

 

 そして、その女性と、その女性が縁を切ろうかどうか悩んでいる、元彼?とのシーンの数々。

 二人は全然噛み合っていないし、元彼の挙動も変だし、あんまり楽しくなさそうだ。

 でも、元彼の方は、方法は拙く、見ていられないほどだけど、なんとか相手の核に踏み込もうとしている。

 他人の人生の軌道を、変えようとしている。

 

 結局、山脇さんは、その女性と良い雰囲気のまま、あっさりと振られてしまう。

 格好良さや、盛り上げ上手なところや、優しさや、そういった諸々は、1人の人間の人生を変える覚悟、凄みの前では、全くもって無力だ。完敗してしまう。

 

 映画を見ていて、私は何度、

「山脇さんといるときの方が、その女性は何倍も楽しそうだよ。どうして、俺のところに来いと言わないのだろう」

と思ったことだろうか。

 でも、言えないし、仮にその文言だけを言ったところで、問題は解決しない。

 なぜ、そこでブレーキがかかるのかというところが、解かれない限りは。

 

 私は、自分にも思い当たるところがありすぎて、胸が張り裂けそうだった。

 

 

 山脇さんと山脇さんの家族とのシーン。

 家族を作るためには、自分の、そして他人の人生の軌道を変えることを、少なくとも一度は決意する必要がある。

 子どもは、その決意をした親の背中を見ている。

 山脇さんの母親は、その軌道変更を、間違ったと認識しているかどうかは分からない。

 ただ、母親の内部に、ものすごい嵐が吹き荒れていることは容易に感じ取れる。

 悪いと思っていても、もうどうしようもない、どうしたらいいか分からないというところまで、追い詰められている。

 

 ひとりの人間の、軌道を変えてしまうことに、ここまでの荒れの可能性が伴うということ。

 

 そのどうしようもない事実に、小さい頃から付き合ってきているということ。

 

 お前はもっと自分勝手に、好きに生きたらいいんじゃないの、と山脇さんの友達は言う。

 その通りだろう。

 ただ、好き勝手にやった結果としての、嵐を目撃し続けてきた人間には、重たいブレーキが伴う。

 

 果たして、他人の人生の、軌道を勝手に変えてもいいものだろうか、と。

 

 

 その場で質問するほどではないかな、と自分にブレーキをかけてしまって、結局山脇さんに訊けず終いだったが、山脇さんは、この話を舞台化し、映画化することによって、他人との付き合い方、特に、核の部分への踏み込み方に関して、具体的な行動じゃなくても、心境的な部分でもいいので、どんな変化があったかを訊きたかったし、訊けばよかったなあ、と思った。

 

 

 映画とは直接関係ないが、私の母は、その軌道変更を、ずっと、

「間違えた、間違えた」

と言っていた。

 それを聞いて育ち、私は、

「じゃあ私だけは間違えないようにしよう」

と思った。

 つまり、人の軌道変更に踏み込まないことを、幼いときに決めてしまった。

 

 でも、最近は、そういうことじゃないんじゃないか、と思い始めている。

 

 先の結果が読めなくても、誰かが大事だと思ったとき、私には、他人の人生の軌道変更までを、含めて生きる必要があるのではないか、と。

 それがたとえ、大きな間違いを招ぶとしても。

 

 多分、良い意味で、私はこの映画をずっと引きずり続ける。

<2880>「『PERFECT BLUE』」

 シアタス調布にて。

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 これで今敏監督の劇場映画はとりあえず全部見れたのかしら。

 

 この作品はう~ん、なんと形容したらいいのか。笑

 

 『千年女優』を先に見ていたので、

「ああ、『千年女優』は随分複雑に、現在と映画内映画と回想と妄想とを混ぜ合わせたものだと思っていたけれど、『PERFECT BLUE』に比べると、かなり分かりやすく交通整理されている作品だったんだな』

という感想を持った。

 

 結末を言うとネタバレになってしまうので言えないが、『PERFECT BLUE』は、結末を分かったうえでも、なお、

「ええと、ということはあのシーンは、どこの、誰の、何だったんだ?」

と、迷子になる場面がとても多かったように感じた。

 

 『千年女優』に繋がっていくところの、現実と、映画内映画と、妄想と、ループとを混ぜ合わせる手法で作りたいという、その原液をそのまま表現したような映画だった。

 

 生のものをそのまま食らったので、衝撃度という意味では、『パプリカ』よりも、『千年女優』よりも大きい。

 

 ただ個人的な好みで言うと、『千年女優』の方が好きかなあ。

 

 ただ、『PERFECT BLUE』は、今後何回も見て、逐一、

「あれはどこの、誰の、何のなかなのか」

を確認しようとしたくなる部分はある映画だ。