<4148>「所感(457)」

 positivity in the communityというところでね。

 

 集中力続報。

yutaro-sata.com

 

 『爆弾』が凄まじ過ぎたってのはあるんだけど、それでも久し振りに、家で集中して2時間くらいの映画を一気に見れた(感想はもうちょっと自分のなかで消化してから、また)。

 

 簿記の勉強を1時間連続でできた。

 

 昔なら当たり前にできていて、しかし近年ではとても無理だったことが、今また自分の能力として戻ってきている。

 

 それもこれも情報流入の制限、マルチタスクの制限などを実践していった効果だ。

 

 文字、音声情報のみならず、現実の物、家事、生活なども全て情報処理と考えられるようになり。

 

 情報が溢れればどんな人でも処理が滞ることを把握し。

 

 では全体を見て、私は今の処理能力をどの情報にあてようか、と選別して考えるようになってきた。

 

 結果、頭がすっきりし、集中力は増し、焦りは消えている。

 

 以上途中報告でした。

 

 このまま、焦らず、もう少し精度、集中力上げていきます!

<4091>「何もない人たちのための容れ物~『グランド・ブダペスト・ホテル』~」

 アマプラにて視聴。

filmarks.com

 

 ホテルって何で良いんだろう。

 

 それは多分生活、所帯の匂いとかがごっそりと落ちている場所で。

 

 かつ華やかで、空虚だからなんだろうな。

 

 この映画の語り手も作家なのだが、作家もホテルがよく似合う。

 

 生きている匂いがしないからだ。

 

 何にもない人たちのためにこそ、ホテルはある。

 

 

 何にもない人たちには、ハラハラドキドキの冒険がつきもので。

 

 というのも、生活にしっかり根を下ろせている人に、当然そんなものは必要ないからなのだが。

 

 命からがら生還しても、生還しなくても、別にそれでどうということはない。

 

 命のやり取りを毎秒必要とするのは、現実に対しては何にも感じられないからで。

 

 それが生き物でない人、何でもない人たちにはつきもので。

 

 我が家に帰り着いたと思っても、我が家はいつまでも生活の匂いがしない。

 

 だからホテルがよく似合うし、いつまでもそこに居る。

 

 伝説のロビーボーイ、物語の生き証人の名は「ゼロ」だ。

<4079>「所感(424)」

 暇なのでふらふらと、ふらふらとって言っても家の中だけど。

 

 なんか映画ないかなって思って、探してたんだけどさ。

 

 もう、『グッドウィルハンティング』とか。

 

 『明けまして、おめでたい人』とか。

 

 それに類するものとか。

 

 多分もう見れないな、と思ってしまった今日。

 

 なんかね、めちゃめちゃ影響は受けたけど。

 

 もうお腹いっぱいなんだよな。

 

 飽和したんだ、自分のなかで。

 

 あんなに好きだったのに、もうビルドゥングス系のものは見れない。

 

 

 だから映画探しも、もうそういう方向の扉って閉まってて。

 

 別の扉がどっかで開いてるんだろうね、探していこう。

 

 

 これ映画だけじゃないんだ。本も、他の娯楽もそうだけど。

 

 もう、かつて好きだったことをまた容れようと思っても、もう人間が違いすぎちゃって入んないよ、別の扉開いているから、すぐ見つかんないかもしれないけど、そっち探して、って自分の中で、どの分野でも今そうなってる。

 

 青年期が、自分のなかの若者が完全に終わってしまった。

 

 中年の入口、中年のルーキーみたいな感じ。

 

 だから趣味嗜好も当然変わってるんだ。

 

 そこらへんちょっとなんかガサゴソ探してみようよ。

 

 もう自分のなかで明確に終わったものが結構あるっぽい。

 

 夜中とかも別に全然良くなくなってしまった。

 

 寝てた方がいいに決まってる時間帯に自分のなかでなってしまった。

<4062>「所感(416)」

 惚れるってなんだろうね。

 

longride.jp

 今日は品川の映画館で『ブルームーン』を観た。

 

 まだ多分公開されたばかりで、ネタバレを沢山書くのでご了承ください。

 

 まあ、あんまりネタバレとかがない映画だとは思うけども。

 

 

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 最初はね、まあとにかく見ているのが辛い感じ。

 

 主人公のラリーが哀れで、哀れで。

 

 弔辞を読むのはやめてくれ、みたいなジョークをラリーはさんざっぱら飛ばすんだけど。

 

 本当にもう、仕事からも背かれ、女の人も得られず。

 

 さながら生前葬の様子。

 

 でも不思議な映画だった。

 

 最後まで通して観ると、その哀れさも、全てようやっとるに回収されてくるというか。

 

 ラリーはね、惚れて惚れて惚れ抜いた人だってことが、最後に一遍に分かるんですよ。

 

 それは愛する女性に、じゃない。

 

 美しさ、美しいものに惚れて、惚れ抜いて、それに殉じた人生だったんだ。

 

 ラリーはね、あそこが生前葬の場だとちゃんと知ってて、最後まで見事にやり切ったんだよ。

 

 そういう感想になる。

 

 最初の方で、見ているのが辛くて耐えられないと思ってたのが嘘みたいだ。

 

 

 一番好きだったシーンは、最後の方の、ヒロインのエリザベスとのふたりきりのシーン。

 

 エリザベスが、男としてではないけど、ラリーのことを愛し、尊敬していたのは本当だったんだな、と思えたのは。

 

 ラリーに対して、かなり優しく、丁寧に、自己開示をしていたから。

 

 不可思議な、妖しい魅力を持った、掴みどころのない才能あふれる美女を演じ切って、ラリーを煙に巻き、惑わせ続けることもできただろう。

 

 でもエリザベスは、ラリーに全部の種明かしをした。

 

 男の匂いに勃起し、流れでのセックスで惨めに失敗し、意中の彼は全くエリザベスを見ておらず、緊張もしておらず、日を空けてまたセックスのやり直しをしても、全然彼の気持ちはエリザベスに向かわず。

 

 その後に至っては、一度も彼から連絡がこないのだと。

 

 要するに、エリザベスとは一回セックスすればそれでよく、それすらも別に彼にとっては良いものでも何でもなかったんだ、ということ。

 

 そういう、エリザベスにとっては何のプラスにもならない相手なのだけど、エリザベスはその彼が呼んだら、たとえどこへでも今すぐに駆けつけるのだと言う。

 

 だって愛しているから、惚れているからと。

 

 どうにもならない対象を、それでも追っかけてしまうという点において、ここへきてエリザベスとラリーの姿はピタリと重なる。

 

 ラリーもここで、俺は男だろうが女だろうが煙草の匂いだろうが酒だろうが、美しいものに酔ってきたんだ、と言う。

 

 美しさそれ自体は、決して手に入らないもの。

 

 それでも、美しさに惚れてしまったなら、仕方ない。

 

 死ぬまでそれを、訳も分からないまま追っ掛けるしかないんだ。

 

 

 惚れられた人のつれなさって、その人が冷たいからじゃない。

 

 あなたが見ているのはあたしではないことが。

 

 あなたが追っかけているのは私ではないことが、惚れられた当人にはよく分かるからだ。

 

 あなたは、具体的なこの私ではなくて、私が媒介する、もっと根源の何かに衝き動かされているだけ。

 

 だから、惚れられたって、本当はその人はどうにもしようがないのだ。

 

 

 惚れるってことはじゃあ無意味なのか。

 

 そこには希望が何にもないのか。結局その感情は当の相手とも無関係で、本当に繋がることができないならば。

 

 いや、何かに惚れることこそ、その人の生を完全に決定する。

 

 何かに惚れて惚れて惚れ抜いたことが、その人の人生の道筋を決定する。

 

 生き方を決めてしまう。

 

 ラリーの、無駄の多い、長いおしゃべりは。

 

 自分が何に惚れて生きてきたかの、完璧な自己紹介だった。

 

 それを生前葬までにきちんと用意するのは、並大抵のことではない。

 

 私もまた、「別の形で」この主人公のことを愛している。

<4006>「『365日のシンプルライフ』」

 アマプラにて鑑賞。

365simple.net

 

 ちょっとまあ所感でも何回か書いていることに関連して。

 

 ものを減らす参考になるかなあと思って観てみた。

 

 自分の持ち物を全てトランクルームに預けて(ゆえに初日は裸! そこまでやるのはすごい)。

 

 1日に1個だけものを取り出せるというルールで暮らす、という実験モノ。

 

 

 さてどんな感じなんだろうと見ていたら早々にそのルールはぐずぐずになっていく。

 

 破る訳ではないんだけど、1日1個取り出すのがうっとうしくなって、何日か後にまとめて取り出す、みたいな流れになる。

 

 ものがどこまで必要でどこから要らないかを厳密に見極める実験というよりは。

 

 人生において、主に恋愛的に挫折し、全てが嫌になった人が。

 

 ちょっと過激な実験をしてみて、おいおい本当に大丈夫か、と心配になって訪ねてきてくれる友達や家族との関係性を結び直し、人生の意味を見出し直し、最終的に結婚できそうな恋人に出会う、っていう、ローカルコミュニティの確かさ、強さ、コミュニティの一箇所(この場合は主人公)が損傷したときに、周りが即座にカバーして補うという、修復能力の具体例を見た、という思いのする映画だった。

 

 あんまりモノがどうとかは、関係なくはないけれど、ちょっと自閉的にものを見る癖のある私には物足りない映画となった。

 

 

 主人公は人間的には至極まともであり(映画のための実験なんか途中でどうでもよくなったり、友達と会って話したり恋人と出会ったり)、自閉的観点から見ると失格である。

 

 自閉的観点から見て失格である、という意味は、実験が定めた字義通りに行われていない、という意味である。

 

 映画の間私はずっと、何故、1日に1つだけものを取り出して、それを記録として見せてくれないのだろう、という不満を抱きながら見ていた。

 

 私ならどうしたか、あるいはきっとそうしただろうと思うのは。

 

 ルールを決めたら、その通り忠実に実行していたであろうこと。

 

 それで、紙に書くか映像に残すかして、1日目には何、2日目には何を持って帰ったか分かるようにするだろうこと。

 

 プラスアルファするなら、その理由も全部に添えるだろうこと。

 

 そういうことを思った。

 

 まあしかし、何かが字義通りに進まないと気持ち悪いというのは、私の自閉的癖であり、この映画の主人公がそれによって責められるいわれはないので、これは私だけの不満であっていい。

 

 

 映画とは関係ないが私は日課をいくつか持っていて。

 

 手帳はバーチカルのものを使っている(時間軸が分かるもの)。

 

 そうやって、自己を課題で、時間で管理していくのが一番快適だからそうしている。

 

 でも大概の人はそうではないだろう。

 

 映画の主人公の、だらっとしたまともさに触れて、ちょっと軽くショックを受けるなどした。

 

 キチキチの自閉的実験映画が見たい。

 

 何かありますかね。

<3494>「所感(140)」

 『さかなのこ』と同じぐらい、近年で最も大きな影響を受けた映画が『明けまして、おめでたい人』で。

 

yutaro-sata.com

 

 何故そんなに影響を受けたかと言えば、この映画が、自分の暗い核を、真正面から真っすぐに突いてくるものであったからだ。

 

 良い意味でこの映画を引きずり続けると、過去自分で結んでいる。

 

 

 「では、運命や宿命とは何かと言われれば、主としてその人と母親との関係で形成されてきたものだと思うのです。」(『真贋』p41)

 

 父親と上手くいっていなかった、ということばかりがフォーカスされ、はて、では母親との関係は如何なるものだったのか、ということを、上述の吉本さんの文章に触れるたびに疑問に思ってきた。

 

 今は違うが、子ども時代、一緒に生活するなかで見つめてきた母親の背中は、

 

 「相手選びを間違ったと感じていて、荒れている」

 

 ものだった。

 

 私は、父親に対する不信感や嫌悪もあったことから、そのかわいそうで、「間違った選択」をした母親に共鳴するような生をやってきた。

 

 自分のなかから父親や父親性を消したし、かわいそうで、間違われた生を送る被害者の側、母親の側なのだと自分を思うようにした。

 

 

 自分はかわいそうで、力のない被害者だという意識から、ひとたびやると決めたことには、楽しむのじゃなく、強迫的になる癖があった。

 

 これができなきゃ自分は捨て去られ、価値がなくなると思うから。

 

 だから、自分としては必死にあがいているだけなのだが、学校のテストなどで、当たり前に上の方に名前が出てくることに対して、何故か違和感があった。

 

 自分は焦っていて、何もできないと思っているだけだから。

 

 それで、周りの反応が、感嘆でも嫉妬でもなく、スーッと引いているようなものであることにも、ひどくショックを受けていた。

 

 自分は被害者でかわいそうなのだから、力があってはいけないからだ。

 

 

 自分の力が明らかになる場面が嫌いだった。

 

 今まで一緒に楽しくやっていた同級生の、顔がみるみるうちに曇っていくのを見ていられなかった。

 

 だから、ちょけた。おどけた。

 

 力があるように見えるでしょ? でもその実こんなにくだらない、ダメな人間なんですよ、としてみせることで、力のなさを取り戻そうとしていた。

 

 

 受け容れられたり、好かれたりすることが、一番の恐怖だった。

 

 自分には価値があることは、常に否定されていなければいけないし、好かれる要素を持っていることは、かわいそうである自分を棄損するので、耐えられなかった。

 

 普通に好かれ、普通に愛されることが、一番耐え難いことだった。

 

 今でもまだ、その類の目を見ると、ぞわぞわする。

 

 こわさがまだ、残っている。

 

 

 今でも普通に母親とは会うけど。

 

 物理的に離れて暮らしたり、それで時間が経ったりすることには不思議な作用が伴う。

 

 本当はそうではない、つまり、かわいそうでも、間違った生を送らされている訳でもない、ということには薄々、それこそずっと気がついていたけれど。

 

 それが完全に腹落ちするのには、この物理的な距離と、時間が必要だった。

 

 母親が、良い意味でただの1人の人として見えてくるから。

 

 

 父親も含め、母親も、別に、間違えたくてやったことではない。ただ、出会って、一緒にいて、結果、こじれて、それを引きずってきた、ただそれだけであるということ。

 

 若者が、その未熟さ故、上手くいかない物事を、複数抱えていた、ただそれだけであるということ。

 

 それで、かわいそうとか、間違ったとか、それはただ、母親という1人の人間の、解釈の仕方でしかないということ。

 

 それを踏まえて、自分がどうするかは、自由であるということ。

 

 

 過去の内心の焦りの結果でもある訳だが、その取り組みの果てに来て。

 

 今は、私は、どこから何をどう見たらかわいそうなのか、全く分からない人間に仕上がってしまった。

 

 勉強にしろ、体力、運動能力にしろ、食事の能力にしろ、他者とのコミュニケーション能力にしろ。

 

 昔は人よりできないと焦っていたから、などという前置きが、もうどうでもよくなるぐらいには、ギフトで溢れ返っている。

 

 力があるという事実と、向き合うこと。

 

 そこからしか、この先の生はない。

 

 また、能力云々に関係なく、生きていれば、訳が分からないまま人に好かれたり、受け容れられたりすることがあるという事実と、向き合うこと。

 

 本当は全部知っている。

 

 誰からも好かれないとか、分かってもらえないとか、愛されないとかの類が妄言で、自分が普通に人と関係を築けるという事実から、目を背けたいがために、その妄言を使っているだけであるということを。

 

 そのために、自分を好く人とか、愛してくれる人とかを、意図的になかったことにしてきたこととかを、自分は全部知っている。

 

 何であの人怒ってるんだろう、自分は何もしていないのになあ、なんて心のつぶやきが、かまととであることも知っている。

 

 好意に対して、良いとか嫌だとかでなく、「なかったことにしている」のを、相手は見ているからだ。

 

 それが人を怒らせることも、よく知っている。

 

 知っていて、やっぱりなかったことにしてきたのだ。

 

 自分が力があったり、かわいそうだったりという設定に、反するから。

 

 人との間に起こる感情を、なかったことにしないこと。

 

 あいさつする、別れる、好く、嫌う、関わる、離れる。

 

 それをすることが、人間の当たり前。

 

 なかったことにしてはいけない。

<3184>「『ハウス・オブ・グッチ』」

 アマプラにて。

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 ある場所、ある段階では適切だった力も、そこを時間的空間的に越え出れば、マイナスに作用してしまう。

 

 例えその人に個人的な能力や魅力があっても、その人がふさわしい場所に位置していなければ、力は空転する。

 

 この家族は、どこでどう組み、どのように時間を経過させていけばベストだったのか。

 

 答えはもしかしたら出るのかもしれない。

 

 しかしひとりひとりの人間は、集団に意識の中心を据えて生きている訳ではなく、個人の生活に重心を置いている。

 

 良い波に乗っているとき、集団からの視点で見れば私はここで退いた方が良いなどと考えて実行できることは稀だし、それが組織にとっても当の個人にとっても良いことであることが分かっていても、立場を追われた身の上で、黙ってニコニコしている人を見つけるのも難しい。

 

 

 人の欲望は、本人にも変わり目が分からないまま、徐々に、そして劇的に変化する。

 

 主人公の妻は、力に目がくらんで愛を始めた人にはとても思えなかった。

 

 ただ、夫を引き上げていきたいという意思は、どこかで、私が引き上げてやっている、という自惚れに変容している。

 

 裏切ったのは、夫か、妻か。

 

 きっかけをどこに置くかでそれは如何ようにも変わる。

 

 そして、変化の過程は見えない。いつも結果だけが見える。

 

 結果が見えているときにはもう、手遅れだ。

 

 主人公の妻は、最終的に、「私の家」に、「グッチ」という名前にしがみつく。

 

 しがみつき、得たものは、獄中での生活だ。

 

 この結末は一体、欲望の変容の、どの辺りで決まったことなのだろう。

 

 人間はこわい、という言葉を放っても、何も掴めないまま放心する時間だけが残る。

 

 人間はこわい、のじゃない。ただ、訳が分かっていなかっただけなのではないか。

 

 現在という、訳の分からない場所にいて、欲望も、身の置き所も、はっきりしなかったのではないのだろうか。