<2539>「からだのなかなのに声をゆすぐ姿」

 かたちのヒから、

 あなたは次々に出、、

 私はものも、、

 よく混ぜて、

 ここへ見る、、

 ここへはらわれていて、、

 しかしいくつも見る、

 あなたはほうける、、

 ものの壁の中、

 はたから繋がり、

 ものかたちをどこまでも見る、、

 かたち、

 かたちのヒから、、

 あなたは出る、、

 

 あなたはものを見、揺らいでいく、、

 ん、しつよう、

 しつよう、しつように溶けていく、、

 からだは溶けていく、

 生まれていく、

 溶けていく、、

 ほらこの肌のヒ、、

 たくみにあやつるヒ、

 死ぬヒ、

 ヒ、

 ヒ、、

 うそ、

 うたい、はらい、、

 からだのなかで連続的に、

 はじまる、はさまる、、

 なかのなか、

 かたい、、

 ものが豊かななか、、

 はさまり、

 ここへ声をしはじめて、

 うん、

 うん、はじまる、、

 生がはじまる、

 ここへ無数に生が、、

 生が、あたたかさ、

 これは、含まれていく、、

 

 あたしはからだのヒのなかに生まれたのに、

 花なのに、

 かたるのに、

 かたまるのに、、

 なかへ、声を、、

 声をゆすぐすがた、、

 からなのに、

 ゆすぐすがた、、

 はじめのはだの、、

 水をあげて、

 うずを、形作る、、

 あなたなのか、、

 肌を よぼう、よぼうとする、、

 あなたのとけざまを・・・

<2538>「内回転へ声を送る」

 ここからはどうして漏る、、

 はなやかな信号、

 ここはどうして、、

 わたしのなかの出来事、、

 からだはつながり、

 わたしはまたこちら、

 これはどこの印、、

 見ているもの、

 見ているものが続く、

 あたしは追いかける、、

 一体どこへ、

 どこへ向けて、、

 ん、

 ないかいてん、

 ないかいてんは悲しい、

 ないかいてんは悲しさ、、

 

 こればかりは含まれて、、

 ある範囲にいる、

 あたしは興奮で、

 知らない場所に立っている、、

 もののなか、

 もののつらなるなか、

 私は生まれ、

 私は外に来て、、

 この集まりのなか、

 ゆっくりとした表情を、

 ただひらいてみせる、

 かこは私、

 なにかが来て、また去る、、

 また生まれてくる場所、

 また手をつく場所、、

 あなたがこの地面に触れていて、、

 こちらを見ると、、

 どうもはじめて出来たように、思う、、

 印なども、全て見え、、

 どうもかきだして、

 まるごと見たように思う、、

 

 あたしは少しおびえる、

 そこで、

 身体を確認する、、

 そしてすっとまた戻っていく、、

 おのれのありかたの、

 その外が見えている、、

 あたしにはずっと見えている、、

 そのヒのなかまで、

 あたしは傾き、、

 ん、どこで、どこで、、

 試しに声をしているか、

 あたしはもののなかを見、、

 生まれたヒを見、、

 一量へ育つのを見る、、

 はい、音声、、

 からだがいつも巻きはじめる、

 あの、音声・・・

<2537>「人が見ているところ、見ていないところ」

 人が見ていないところで頑張っている、と聞くと、あなたはどう思うだろうか。

 

 人が見ているところで頑張るのは当たり前だけど、人が見ていないところで頑張っているのはすごい、と思うだろうか。

 

 こんなことを書き始めたのも、もし上記の感想が広く一般に共有されうるものなら、私の感覚はちょうど反対だな、と思ったからなのだ。

 

 ひとりを好む性格ゆえか、単に恥ずかしいのか、私は人が見ているところで頑張るのが苦手だ。

 

 昔はそれこそ、トレーニングをしていても、人が見ているというのが分かると、その状況があんまり嫌なので、すぐにおちゃらけてトレーニングをやめてしまうようなことをしていた。

 

 今は、例えばなにかやりたいトレーニングがあってそれをしているとき、人が見ていると、それによってトレーニング自体をやめてしまうようなことはなくなったが、それでもなるべく人目のつかない場所に移るようにしている。

 

 何が嫌で何が恥ずかしいのかは分からないが、とにかく人が見ていない方がトレーニングはしやすい。

 

 昔、中学生の頃だったと思うが、夜ご飯の前までに時間があったので、自宅の近くの階段でダッシュ練習をしようと思い立ったことがあった。

 

 初めのうちの心積もりでは、

「まあ、2、3本走ったら引き上げようか」

ぐらいのものだったのが、何か興奮状態に入ったのか、

「ちょっと行けるところまで何本でもやってみよう」

というところへいつの間にか思いは移っていた。

 

 それでしばらく何本か続けて走っていると、階段の上の方から誰かの声がした。

 同じ中学校の同級生だった。

 

 同級生は、ただ私を見つけたからちょっと声を掛けただけで、別に練習を馬鹿にするようなこともなかったし、そのままじゃあねと言ってすぐに帰っていった。

 そこで私は、何が恥ずかしかったのか、まだ体力も残っていて、しかも、同級生ももう帰っており、それに、さっきはどんどん何本でも走ってみようと思っていたのに、急に練習をやめて家に帰ってしまったのだ。

 

 見つかってしまった、という感じがあったのだろうか。

 

 だから私は、人が見ていないところで頑張る人ではなく、人が見ているところでも、きちっと自分のなかの決め事を決めた通りにトレーニングしている人の方をこそ、なんとなく尊敬してしまう。

 

 変に人に見せつける必要はないけれども、見られる見られないに関係なく淡々と努力出来たらなあ、と常々思っているから、その気持ちはなおさらなのだ。

<2536>「歓声と、底に溶ける」

 あらたにした、

 あなたものなかそとうち、水の、した、、

 身体が照る、、

 どこや、どこや、、

 身体を招ぶ、、

 私はヒの明かり、

 身体の回転面、、

 ヒのあおり、

 これらどこまでも、、

 どこまでもその作業の、

 形を把握するのだが、、

 ものがある、

 ものがはじかれる、、

 私の底の方へ、

 いつもいつもながれこむのを、

 すっかり、見ている、

 

 からだなかそとなかそと、、

 ものくれる、

 もの静かにここへくれる、、

 あたしは液になり、

 その場へはっきりとした、

 歓声をあげ、

 あたしから抜ける、、

 ものの中心の、

 その呼吸の、、

 なかにある、、

 あなたははじける、、

 あなたはその物事の外にある、、

 いかに覗こうか、

 いかに身体を出ようか、、

 あるあたらしい距離と、

 ここにきかされて、、

 私は流れていく、、

 身体ごと、流れていく、、

 ものをくらい、

 見つめる視線、、

 あたしははじまり、、

 ものにかかる視線、、

 

 私は膨らんだ、、

 もののみごとなはた、、

 きた、

 歩いた、、

 かたまった、、

 また多く水に溶けた、

 つながった、、

 また膨らんだ、、

 あなたに限って、

 まっすぐに見ている、、

 つながった、、

 訳の分からないほう、、

 あなたが目をし、

 あたしはさめ、

 水をはらう、、

 水だったころのように、はらう・・・

<2535>「『医学生 ガザへ行く』~アジアンドキュメンタリーズ」

asiandocs.co.jp

 

 70年以上、生活の場が、破壊され続ける場所へ。

 外国行きのパスポートを取得することは、莫大な資産を急に得るようなものなのだ、と言われてしまう場所へ。

 病院に運び込まれて来る人々は、銃撃を受けた人々であることが、当たり前である場所へ。

 

 イタリアの医学生リカルドは、留学することを選ぶ。

 

 友達や、家族がいて、幸せな場所から、争いの中心地へ。

 私は辺見庸さんの『もの食う人びと』のオープニングをそこに重ねた。

 

 普通の生活が破壊される場所で、やっぱり外国に出て行きたいと思ってしまう場所で、しかしそれでもここが故郷だから、普通の生活を守るんだ、普通の暮らしをするんだ、という気概を持った人々に、リカルドは出会う。

 

 慌ただしい救急病棟、銃撃された人々が次から次へとやってくる場所に立ち、リカルドはそこで医師としての自分を定める。

 

 ある境地へ、一度定まれば、そこからはどこへ行こうと大丈夫であろう。

 

 それを得られるのがリカルドにとってはガザでの生活だった。

 

 何故ガザだったのか。

 

 もっともらしい理由を、いくつもつけようと思えばつけられる。

 

 しかし、こういうとき、その場所が人間を選び、人間もまたその場所を選んだ、それ以外のことではありえないと、考えるのが一番自然だという気がする。

<2534>「あらたによぶほうへ」

 あ、としたら、、

 なかに沈んでいくとして、、

 うん、

 ものみごと、、

 ものうみ、からだなど、、

 このあたりへ、

 沈んでいくとして、、

 あたしが見ていたもの、、

 その、たれたのに、

 少しつ、少しつ、、

 近づいていくのを、、

 はたで、見た、

 はたでそれを見たまま、

 私ははてへ、

 はてへ、身体を持って、

 次々に生まれかけていた、、

 

 あたしはきた、

 きたからには次々にとけ、、

 そこへまっすぐに入る、、

 まっすぐに入るからだ、、

 ときおり、見た、、

 見たら、ふるえる、、

 その視線の先、

 見たら、

 あたしはおそれている、、

 こんだ時刻の中で、

 あなたはただ、回転し、、

 私は、なかに投げられる、、

 ものごとのかたい、

 かたいもののなかに行く、

 すむ、

 すんだらまたながめ、、

 ながめたら次々にとけてうまれる、、

 ものへ、なかへ、、

 あらたによぶほうへ、、

 なかへ、かたい、、

 あられたら、ものさぐり、、

 ぞ、

 ささやかなものへ、

 からだを譲り、、

 私は、出る、、

 

 このからだのなかのなに、

 からだの、なに、、

 時刻の、なに、

 いまはうつろうか、、

 いまは、ヒごと、うつろうか、、

 あたしの手のありか、

 そのままそこへしずかに出ていようか、、

 あればまた巻く、

 巻くこと、、

 からだなどがいくつも出てくること、、

 ながれを、見ては、、

 しずかにうまれる、

 ものと、ふたり・・・

<2533>「夢を持つことの重要性」

 『心はこうして創られる』を読んでいる。途中ではあるが、もう既に感銘を受けている。

 つまり、人間の心に深さなどなく、つまりどこか奥深くに真実を宿した心があるわけではなく、心は徹底的に表面であると。

 そしてその表面上でその場その場の即興劇を繰り広げるのが脳の働きであると。

 その劇の材料はどこから持ってくるかというと、過去の記憶の蓄積から持ってくると。

 それでなるべく一生懸命に現在と過去との辻褄を合わせようとする、上手くそういった物語を作ろうとするのが人間の脳の働きなんだと。

 

 いやあ、面白いな。

 

 それで私が今これを受けて何を考えているかというと、ずばり「夢を持つこと」についてであって。

 

 例えば、夢を持つという語りのなかには、

「信ずれば、あるいは信じて努力すれば夢は必ず叶う。だから皆夢を持とう」

 というものがあって、これが一般的な語り方だと思う。

 

 しかし私は、努力すればとか信ずれば叶う方式の、現実世界での社会的成功を基準にした「夢を持つこと論」には大した意味はないと思っている。

 社会的成功という様々な偶然が絡み合うものに対して、何かをすれば必ず式に必然を説こうとしているのでそれほど価値があるとは思えない、というのがその理由だ。

 

 しかし想像的次元が上手く機能しなければ現実的次元が上手く働かないという意味で夢を持つことを説くならば、それは大いに意味があると思える。

 

 つまり、前述の通り、人間は現在と過去との辻褄合わせを絶えず行っている生き物であり、ということはその都度その都度丁寧に物語を編み直しつつ生きていくのが人間であるということだ。

 そうすると、その必死の辻褄合わせが上手くいかない、あるいは変な方向に辻褄が合わさってしまうと、その人の生というのは途端に苦しくなってくるだろうことが容易に想像される。

 

 現在と過去とが上手く合わさって機能しなくなるからだ。

 

 いっかなドライに生きようと努めても、人間は時間的な存在であって、必ず年を取り、必ず年を取るということは絶え間なく過去が生まれる。

 過去に起きたことのいくつかは深く記憶に残り、深く記憶に残ったものは現在の私に覆いかぶさってくる。そうすれば私は現在と過去とを上手く繋ぐことを考えなければならない。

 いや、考えなければならないと思うまでもなく、脳はそれをやってしまうものなのだろう。

 

 辻褄を合わせる作用が生きていく上で必須ならば、想像的次元での創造を絶えず考えることは、それによって現実的次元にどのような作用がもたらされるかを考える、ということをも含むので、とても重要な作業になるのではないか。

 

 つまり、想像的次元と現実的次元の折り合いが悪い場合、想像的次元での、物語の編み直しという作業が必要になってくるのではないだろうか。

 

 今の私は想像的次元でどのような夢を見たら、現実的次元に良い作用をもたらせられるか、ということを考える、ということだ。

 

 それが、夢を持つことの意味ではないだろうか。

 

 夢の内実は、途方もなくても、とても些細なものであっても、それ自体は別にどちらでもいい。

 

 大事なのは、想像的次元の夢の持ち方が現実的次元をよく活かしているかどうか、ということなのだ。

 

 よく、妄想などは悪いものとして扱われ、誰かが妄想を抱いていたら、それをすぐさま解除することが良いことだとされているように思えるのだが、妄想においても注目すべきは、妄想の内実ではなく、それが現実的次元を活かす在り方なのかどうかということではないだろうか。

 

 もし現実的次元を損傷するような形で妄想が機能しているなら、妄想を解除するのではなく、創造力によって物語の編み直しを図ることの方が建設的ではないだろうか。