<403>「景色がひとりで渡る」

 整列した沈黙に、何かを感じていられるのであったら、そこは黙って、こちらも渡らなければならない。真面目な顔などというものは生みだすな。ただ、それは歩みに付随して、いかなるメッセージも発さないことに注力する。見分けのつかない、その道に臨む態度としては、真面目も不真面目も当たらない。ただ、情け深さ、慎ましく、しかし決してこの道を他に逸らさず、ひたすら繰り返されることを決意した表情でいたい。それは、私だけの望みではないはずだ。

 連れ添うものを、求めたいとも求めないとも決めず、景色がひとりで歩み出すことを、受け容れやすいものと捉えている。ひっそりと隠れているものは、削ぎ落とされた結果としてあるのか、無限に膨らんだ結果としてあるのか。いずれにしろ、道の途中であるという事実と、道の途中だから云々という言い訳とでは、決して折り合いはしない。

 ぼやっとしているうち、飛躍して、今までのことは、実感として分からなくなっている。それをどう伝えたらいいのか。あの人は何も伝えやしないじゃないか、いや、伝える方途を、突然失ったと何故考えてみない? 眠っていた訳ではない、何も気にしなければ良かった訳でもないただ、動きは何か突然のものを抱えていると理解しておくことだけは大事だったのかもしれない。

<402>「ただ」

 見ろ、閉じていく。明確に、正確に閉じていく。また、閉じさせないままでいる、その方法も知っている。そして、閉じないのなら、その方が遥かに良いということも。それだけが確認されていれば充分で、その方向だけが見据えられていれば充分で、後は、諦めの悪い侵食を、ズブズブと進めていき、それを自分に許せばいい。

 スコンスコンと、思い切って降りていきさえすれば、行動がより行動らしく、気持ちがより気持ちらしくなっていくことを知っている。それは、何より大事な知恵だろう。そして、私が、たとい大丈夫だと告げても、自分で降りてみるなどしない限りはどうしようもないことを知って、ひとりで黙々と動いていけ。動いていければそれでいい。

<401>「触感の変化」

 存在の常と、知ってか知らずか、その大きな損傷はやって来て、あるひとりの人間を、得体の知れない強さに変えてしまう。平等に見えることを拒絶して、強さは、いまや景色の全部になろうとしている。

 見る者であるという言葉のなさ、当事者であるという全面的な、その違和。強さは、誰かによって獲得されたのではなかった。それは、最初から、風景以外にはなり得ないものとしての存在を意味する。

 固さ、や、速さ、激しくぶつかる瞬間、や、重さ、それらのものが初めから、強さとの関係を持たないで、しかし、どうしても今後は、ここに現れざるを得ないのだとしたら、私は、下を向くのも忘れて、眺めているもの全ての感触を失うのだろう。

<400>「年齢が貯まる」

 渡すべき人がいるのならともかく、後に残すことになる子供も誰もいないのに、沢山のお金を貯め込んだままで死んでしまう、これは、おかしさの、嘲笑の対象とされたり、批難の対象とされたりもするが、事はそんなに簡単ではない。笑われたり怒られたりすれば、その人が、恥ずかしさから申し訳なさから、すぐにその行為を改められるような、そんな易しい問題ではないという気がしている。

 これはまさに、悲惨さ、端的に言えば、確実に死ぬという事実と、人間の側がまだ上手く折り合えていないことを示すひとつの事例なのではないか。生きていくのにお金がかかるのは(今のところは)、どうしようもないことであり、晩年に至ったときのお金のなさ、また、晩年に至らないまでも、いくらかのお金が用意出来なかったばっかりに、あえなく死んでしまうようなことも当然ある、というか、そういった事例は数え切れないほどの多さになるのだろうが、一方で、金があれば死なない訳ではないのだ。

 おそらく、使い切れないほど、いや、何に使うのか分からないほどにお金を貯め込んでしまうのは、その悲惨さを、どうにもならない事実を忘れたからではないのだろうし、その事実から目を背けたくて狂ったようになってしまったからでもないのだろう。まるでかわせないことを知りながら、しかし自分でも何故かは分からずに淡々と積み上げてしまう。そこに錯乱も、醒めた目線もないのではないか。では何がある? 何がそうさせる? それが分かっていたら、訳も分からないほどに貯め込んで、そしてほとんどそのまま使わず終いになる、なんてことは起こらない、あるいは、起こったとしてもその頻度は、ぐっと低くなるのだろう。果たして、お金は悲惨さの代わりをしているのだろうか。表面的にはそうだろう。便利でもある。ただし、根本から悲惨さを癒すことは、まずあり得ないのではないか。お金は、寿命の代わりをするのだろうか。代わりにはなり得ないことを知って、それでもなお自分の年齢を支えてくれるものでもあるような、考えというよりほとんど行動を生んでいるのだろうか。

<399>「死に方、死に際」

 悲惨さを誤魔化すことで何事かを成立させようとするのは好ましくないという話に関連してくるのだが、医療、医学といったものの究極の理想は、

「人を、楽な状態へと持っていく」

というところへ置いておいた方がいいと思う。そんなことは当たり前のことじゃないか、と思われるかもしれないが、例えば、

「どんな病気も、絶対に治せるようにする」

であるとかは、理想のひとつとしては素晴らしいかもしれないが、これを究極の目標にしてしまうと、人は絶対に死ぬものである、という事実と、どこかで必ずぶつかってしまうことになるのだ。動かしようのない事実とぶつかる理想は、新たな不幸を生み出してしまう。どう考えても、死というものが圧倒的な力で存在を上回ろうとしていて、当人は、死の寸前で非常に苦しい状態にある、言ってしまえば早く楽になりたい。だが、どんな病気にも絶対に打ち勝つという理想を究極としている医師は、すんでのところで患者の手をぐいと掴む、それでしばらくは死なせずに済む、が、死の、存在を上回ろうとする力が圧倒的になってきている最中なので、寸前のところで引き止められて患者も苦しい、医師も大変、見守る家族も疲弊する、そしてあまり間をおかずに、結局は死というものに、とうとう存在の側が上回られてしまう、というのでは全員が辛い。

 じゃあ、何にも治さなくていいとでも言うつもりか、と思われるかもしれないが、決してそうではないのだとしっかり言うことが出来る。前述したように、どんな病気も治せるようにするというのは、理想のひとつとして素晴らしいものであることに変わりはなく、ただ、それを究極の目標にしてしまうと、死という現実とぶつかって新たな不都合や不幸が生じるというだけのことで、一方で例えば、

「人を楽な状態へと持っていく」

という理想は、

「どんな病気でも治せるようにする」

という理想をそのなかに包含することが出来る。その病気を治すことが、人を楽にさせるところに繋がることはあるというか、こういう場合が実際にはほとんどだからだ。だからこそ究極の理想に据えるべきを見誤ってしまうのだが、人を楽な状態へと持っていくということを究極の理想としていないと、いずれは絶対に死ななければいけない人間、つまり死が存在を上回るという事態に必ず見舞われる人間というものを、その終わり頃、非常な苦しみのなかにあっても、むやみやたらに引き止めてしまうようなことになり、それは端的に言って悲劇になる。もうこれは明らかに圧倒しに来ているし、圧倒されてしまう、というときは、素直にそのまま圧倒させた方が良いのではないだろうか。

<398>「知ったような口」

 模倣が、無意識の模倣が、そうして口をついて出る。

「知ったような口を利いてらあ!」

ドワッハッハ! その大きな笑い声たちにびっくりしながら、奇妙に別の空間に落ち込んだような気持ちで、違う、という言葉ひとつを全身の感慨に寄り添わせる。それは、抗議の気持ちではなかった。

 知ったような口を利いているのはそうだ、その通りだ。だが、全体が、大きく笑ったのは変だ。どうもそう思った。知ったような口を利くことが、つまりは喋るということではないのか。知ったような口の利き方の延長に、あの、大きな笑いもあるのではないか。そうだ、その通りだと思わずして笑っているのなら、大事なことを忘れているか、その、かつてあった大事なことを、未だ大事なことだと気がつけていない阿呆かなのだが、自虐的に、あるいはその初めの頃のたどたどしさを目撃して懐かしくて笑っているのであれば、まあ分からなくもない。そういう笑いは、どういう笑いだ。種類は別に何でもよいのだった。

 知ったようであることに馴染んでから、随分と時間が経ってしまった。時間が経ってくると、それが違和感を覚えさせるものであるという事実に変わりはないのに、周りの慣れのためか、何がしかの「当たり前」の一部にされてしまって、もう誰にも笑われなくなってしまっている。知ったような口を利いていること自体を忘れ出す。そういうとき、無邪気な模倣の喋り口を前にして、うっかり大きな声で笑ってしまう、それはきっと思い出し笑いなのであって、またそれは、ひとつの嬉しさ、気持ちよさでもあったはずなのだ。

<397>「満足でも不満足でもない」

 満足かどうかと考えれば、もう今の時点で充分に満足だという気がするし、まだまだ足りないのだろうかと考えれば、やはりまだまだ足りないのであって、例えばその足りなさは、仮に私に数百年数千年という年数が与えられたところで、決して満たされない類のものだと感じる。だから、もう、満足ですかそれともまだまだ足りないのですか、などという、質問及び自問をやめてしまおう。満足ですあるいはまだまだですと答えたところで不十分だし、これぐらいの満足がある一方でこれぐらいの不満があって、両方あります、と言ってもまた何かが違う。ふたつが同時に存在する訳ではないのだから。満足だと考え出せばどこまでも満足であるように感じ、そうでないと考え出せばどこまでもそうでないように感じる、こんなものは、私のなかでは無いに等しいものなんだと考えていいのでは。満足か否かという問いでは、いまいち何も確かめられない。