<399>「死に方、死に際」

 悲惨さを誤魔化すことで何事かを成立させようとするのは好ましくないという話に関連してくるのだが、医療、医学といったものの究極の理想は、

「人を、楽な状態へと持っていく」

というところへ置いておいた方がいいと思う。そんなことは当たり前のことじゃないか、と思われるかもしれないが、例えば、

「どんな病気も、絶対に治せるようにする」

であるとかは、理想のひとつとしては素晴らしいかもしれないが、これを究極の目標にしてしまうと、人は絶対に死ぬものである、という事実と、どこかで必ずぶつかってしまうことになるのだ。動かしようのない事実とぶつかる理想は、新たな不幸を生み出してしまう。どう考えても、死というものが圧倒的な力で存在を上回ろうとしていて、当人は、死の寸前で非常に苦しい状態にある、言ってしまえば早く楽になりたい。だが、どんな病気にも絶対に打ち勝つという理想を究極としている医師は、すんでのところで患者の手をぐいと掴む、それでしばらくは死なせずに済む、が、死の、存在を上回ろうとする力が圧倒的になってきている最中なので、寸前のところで引き止められて患者も苦しい、医師も大変、見守る家族も疲弊する、そしてあまり間をおかずに、結局は死というものに、とうとう存在の側が上回られてしまう、というのでは全員が辛い。

 じゃあ、何にも治さなくていいとでも言うつもりか、と思われるかもしれないが、決してそうではないのだとしっかり言うことが出来る。前述したように、どんな病気も治せるようにするというのは、理想のひとつとして素晴らしいものであることに変わりはなく、ただ、それを究極の目標にしてしまうと、死という現実とぶつかって新たな不都合や不幸が生じるというだけのことで、一方で例えば、

「人を楽な状態へと持っていく」

という理想は、

「どんな病気でも治せるようにする」

という理想をそのなかに包含することが出来る。その病気を治すことが、人を楽にさせるところに繋がることはあるというか、こういう場合が実際にはほとんどだからだ。だからこそ究極の理想に据えるべきを見誤ってしまうのだが、人を楽な状態へと持っていくということを究極の理想としていないと、いずれは絶対に死ななければいけない人間、つまり死が存在を上回るという事態に必ず見舞われる人間というものを、その終わり頃、非常な苦しみのなかにあっても、むやみやたらに引き止めてしまうようなことになり、それは端的に言って悲劇になる。もうこれは明らかに圧倒しに来ているし、圧倒されてしまう、というときは、素直にそのまま圧倒させた方が良いのではないだろうか。