先が見えるということと、
実際に生きて、
のち、本当にそうなるということのあいだには、
ひとつの距離がある、、
私は身体で、
身体で学んでおくことがまず必要だ、、
あたしは非常に暗い時刻につき、
そこで身体を少しずつ振る、、
少しずつ生きてきたもの、
ああやがて通路が見える、、
あたしには語りたいことがない、
本当に人が好きなんだろうか、
乗せられて、
興奮するということはある、、
好きになるというのは時間で、
段々作られていく意思のようなものか、
からだがしずかな場所へ来て、
あたしはみずからが定めた運動を、
繰り返す、
これはどこへ行くの、
と問わなくてもよい、、
失敗してもよい、
失敗したことに対して、
調子に乗らないようにすれば、、
意外と失敗はテンションが上がるものです、
それに対して、
段々ならしていく術を持つこと、、
これは気持ちのいい遊びだ、、
あなたにはこの声がきこえるかもしれない、
私はからだを起こしてくる、、
なにから集まり、
なにからつながる、、
私はひとつの、
かたちのなかま、
かたちのなかまからえる、、
ひとつの流れ、
ねえ、
そのかたちのなかに、
なにも見出せないとしたら、、
それは私の持って来るものなのです、、
多分生まれるまえからの、
いちいちの仕草なのです、と思う、、
すなおなからだが、
今ここら辺りに住んでいて、、
あたしは道を見、
ひとつの空の形を見、、
ひとつの風景を見、
からだにかえり、、
からだから生まれ、
ときおりよく見、、
よくさわられることで、、
時間を得る・・・