人生の中で出会う人、起こる出来事などは事前に決まっている、というようないわゆる運命論的なものは、あまり信じる方ではない。
それはつまり、周りの無数の人々や出来事が私のために生起することを強いられることになる訳で、そんなことは可能性としても随分低いだろうと思う。
しかし、人生の中で、その人の「その人性」とでも言うべきものが、年を経るにつれて強化され、その人の人生の方向は、途中から、ある一定の方向以外ではあり得なくなる、という形での、いわば運命みたいな道筋のことなら、わりと信じている。
若い頃にはいくつか方向がある、あるいはあるような気がしている。
しかし年を取れば取るほど、私の道は最初からここを辿るよりほかになかったもののように見えて来る。
私が、より私になっていく。
それ以外のものではあり得なくなっていく。
その人性が次第に強化されることが、その人のかけがえのない魅力にもなり、どうしようもない厄介さにもなる。
この映画の主人公は、そんな厄介さと魅力とが限界にまでゆきづまって、もうどうにも身動きの取れなくなっている老人である。
ほとんど無自覚に、周りの盛り上がりに水を差してしまう、端的に言えば嫌な人である。
しかし、嫌な人であるから、他人を軽蔑して自分だけは違うと思っているから、この主人公は人との繋がり、特に家族という形式で人と繋がることが出来なかった、という考えを私は取らない。
主人公は、私は弱かった、家族になることから逃げたのだ、惨めだ、と言う。
果たして、本当にそうであろうか。
主人公の、いつどの時点で始まったことかは定かではないが、もしかしたら、生まれたときからそうであったかもしれないが、主人公は、家族を作ること、家族になることに、ちっともリアリティーを感じられなかったのではないか。
人間にはどんな選択も可能である。
未来は、自分で掴み取っていける。
それが、正しい場面も無数にあろう。
しかし、全面的に賛成できないのは、その人にとってリアリティーが感じられないものは、たとえ選択肢の中に入っていようと、選ぶことが出来ないのではないか、と考えているからなのだ。
人は、リアリティーが感じられない場所で生きることなど出来ないのではないだろうか。
なんだよ、選択肢の中にあるじゃないか、選べばいいだけじゃないか、逃げるなよ。
と言われ、例えば仮にそれを選んだとする。
しかしリアリティーを感じられないものを選び、その中で生活することを決めても、どうしても現実から浮遊してしまうのが結末ではないか、という気がする。
だから、いかに惨めであろうが、人から疎まれていようが、この主人公は、自分がリアリティーを感じられる場所で生きていくことを、最終的には受け入れたのだと思う。
自分にとってリアリティーのない、しかし魅力的な選択肢を前にして、目が眩むことはあっても。