<2437>「内には立ち入らせないという、その始まりの日」

 社会科見学の一環のようなものだったのか、

 小学生のとき、地元のスーパーやお寺や、その他なにやかやを班ごとに分かれて巡るような活動があった。

 と言っても、ひとつの班は大体1か所か2か所くらいを巡るだけで、あらかじめ決められたスポット全てに行ける訳ではなかった。班ごとに綺麗に割り振られるのだ。

 

 私は当時、どうしても地元のスーパーに行きたかった。なんでも、社会科見学であるから、普段は入れないその裏側、内部まで見せてもらえるという話なのだ。

 巡ることの出来るスポットはおそらく、重複すればジャンケンをするか話し合いをするかで決着をつけたのだろうが、よくは憶えていない。

 私は当然班の他のメンバーに、

「スーパーを候補に入れようよ!」

と言った。どうしても行きたいのだと。

 

 そこで、今考えても不思議なのだが、その私の言葉は、無視されるというでもなく、ただなんとなく、私の熱意とは裏腹にスーッと流されて、消えてなくなってしまったのだ。

 私はそこで、悔しいというより、この言語空間における仕打ちが信じられなく、こわくてべそをかいていた。

 多分、私と同じような熱意を持った子どもは大量に居たはずだから、同じ班の他のメンバーは、重複をおそれてその選択肢を斥けたか、あるいは単にスーパーに全く興味を持てなかったかなのだろう。他のメンバーはそれとは違う候補地でどこを選ぶかに熱中していて、私の言葉を流したことさえ多分そこまで意識にのぼっていない様子であった。

 

 そこで、普通ならというべきか、建設的な在り方を想定するなら、

「いや、ちゃんと話をきいてくれ」

であるとか、

「スーパーに興味がないの? それはどうしてなの?」

であるとか、

「重複をおそれていないで、とりあえず立候補してみようよ」

であるとか、なんとかして交渉を続けようとする、といったものになるだろう。

 

 しかし、私は何故か、これも何故だか分からないのだが、今にまで連なるひとつのスイッチをここで入れることになった。

 それはいわばとても不健康な在り方なのだが、こういうものだ。

「ああ、なるほど。外部の世界というのは私だけが生きている世界ではない。だから、私の言い分が華麗にスルーされることもある。よろしい。ならば外部の世界は他の人に譲ろう。そこで私は何も望まない。しかし、私のこの内世界だけは、絶対に誰にも立ち入らせないし、ここでは自分が全てを決める。外部世界を完全に他者へと譲り渡す代わりに、内世界へ一歩でも入ってきようものなら、私はその行為を絶対に許さない」

 ああ、とても良くないスイッチが入ったことが一目で見て取れる。

 

 このスイッチが入ったことにより、私は社会のなかでとても穏やかな人間になった。

 内世界を、時間を掛けてゆっくり強固なものにしていったおかげで、自分の内世界が侵されない限りにおいては、外部の世界の選択肢というものに対して、譲るというよりは、全く興味がなくなっていった。自分の外の世界で誰がどの選択肢を望んでいようがそれはどうでもいいというような感覚だ。

 

 書いていて静かにおそろしくなるほど不健康な在り方な訳だが、これもまた不思議なことに、じゃあ例えばその過去のスイッチを入れる直前に戻れたとして、ある意味健康的な方向へと、出来るものなら舵を切りたいか、と自問すると、必ず私の底の方から、

「それは絶対に困る」

という声が返ってくるのだ。

 この、絶対に譲れない内世界を構築し続けていく行為に、穴をあけることだけは絶対に許されないという、強固な声が私のなかから聞こえてくるのだ。

 つまり、あのときスイッチをいわば不健康な方向に入れたのは、とても暗い場所から出たにせよ、それだけ深い欲望の声を反映していたということだ。深くから出過ぎて当時の私には何のことだかさっぱり分からなかったはずだが。

 

 

 何故そんなことを思い出したかというと、私の内世界と外部環境のこととで最近ハッとしたことがあったからなのだ。

 それは、社会に出て接する周りの人が、ほぼ例外なく愚痴や他人の悪口を日常的に言い、しかもその愚痴や悪口の内容がやたら豊富で、細かいということに気がついたということに端を発する。

 というのも、私は社会の場面で、愚痴も悪口もほとんど言わない。

 それが、いわゆる「良い人」だからではないことは、この文を読んでこられた方なら分かると思うが、それに同調しようとしても、単純に愚痴や悪口が思いつかないのだ。

 何故なら、外部世界は基本的に他人に譲っており、自身の内世界が侵されない限りにおいては穏やかでいると、もう既に随分と前から態度が決まっているからだ。

 

 だから、ごく親しい友人や家族などを除き、私は他人に対する評価が、

・自分の内世界を侵してこない→良い人

・自分の内世界を侵してくる→嫌な人、邪魔な人

ぐらいの濃度でしか存在していないのだ。何か細かい愚痴や悪口を見出そうとしても、そんな評価軸はまるで持っていないことを思い知らされるだけだ。

 

 私のように不健康なスイッチを入れなかった世界に居る人は、随分と濃い濃度で他人を、そして周りの環境を見ている。

 そして自分はそのような在り方からあまりにも隔たり過ぎている。

 そんなことを考え、冒頭の、始まりのエピソードに辿り着いたのであった。