<2331>「時間が円であるということがわかると、・・・?」

 鎌田茂雄さんの『華厳の思想』を読んでいる。

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 すいすい読んでいこうと思っていたのだが、今日のこの、第一章の4がとてつもなく、前に進めなく、しばらく放心してしまった。

 

 ちょっと辿れるか分からないが、整理してみよう。

 

 まず、五感が便利に過ぎて、頼り過ぎるので、修行によって、声なき声を聴く感覚を養っていくんだという話が出て来る。

 それには意志の集中。それから無心が必要となる。

 前者の方面の行が発達するとそれは浄土教になり、後者の方面が発達すればそれは禅になっていくんだと。

 浄土教は分からないですが、禅に関してはそんな感じですよね。

 

 それから臨済録の話に絡んで、

『仏とは何か、それは自分自身のなかにある魂の内奥の声(光明)だということに彼は気がついた』p82

とある。

 さきほどの修行のテーマと重なる訳ですね。内側にまず声があるんだと言う訳です。

 

 それから次のページでは、内側の声を聴いた、その記憶があること、それが修行へと向かわせる、つまり一度聴いたものに再び辿り着こうという運動として修行があると捉えられている。

 

 それでp84からは、他力に関わる話とかが出て来ます。親鸞さんとかであるやつですね。

 仏を求めて悪戦苦闘するのは自力だというわけです。そうではなくてふっと無限の光の世界に包まれていることを知る、そのとき思わず合掌させられる。それが他力なんだと。

 他力ってなんだ、人任せみたいなことか、と考えていたんだけど全然違うんですね。

 

 自分から救いを求めるとか悟るとかいうのはいずれどこかの地点で中断させられざるを得ない。なぜならそれは自身の欲望の延長だからというわけです。

 そうじゃなくてその中断の先に、仏の方からこちらへ向かってくるんだと。

 

 これは大分他力というものが分かりやすくなりました。

 

 それでp86からはすごいですよ。いわゆる極小のもののなかに全てを見るってことなんですが。

 その例えで出て来るのが読書メーターの方で引用した米一粒の話なんです。

 これがすごいのは、人間と自然の諸々の営みの過程のなかに、あるいは終着点として、米一粒が位置しているよ、という話ではない、というか話だけではないからなんです。

 米一粒のなかに、様々な要素が、全て入っている、現に今ここにそれが全て入っているという世界観なんです。これはすごいですね。

 つまり一粒のなかに時間や空間が無限に展開されていると考えるということです。

 

 p88からは数理哲学の話がでます。つまり一があると。でそこから二、三、四と進んでいきますよね。でもそれは直線的に並ぶというよりは、一のなかに全部があり、無限まで含めて全部があり、それがゆえにそこから数字が展開されるのだというんです。これは何でしょうか。

 

 p89からは正法眼蔵です。道元さんですね。

『山は山なり。山は山に非ず。山は山なり』

と。

 これをどう読むでしょうか。鎌田さんはこう言います。

『初めの「山は」の山はいま自分の目の前にある山で、つぎの「山なり」といったときの山は説明であって、現実の山ではなく嘘の山である。そこで道元は、いま山といったのはそれは嘘の世界だというので、「山は山に非ず」、ここで山といったのは真実の世界ではなく、概念的世界にすぎない。それでもう一回「山は山なり」といい、ふたたび初めの目の前の山を見ようとする、道元にとっては、目前の山だけが具体的現実なのである。』

と。どうでしょうか。

 

 今目の前にあるものを山と呼んでみる。しかしそれは説明であって目の前に存在しているものとは関係がない。説明されえない山でないこれが、これなのだ、と言うんです。とんでもないですね。具体的現実と言語意識のこの踊り。

 

 道元さんにはこの生きた具体的な現実だけが関心事だったというのです。

 

 最後p90に、タイトルにもある、

「時間が円であるということがわかると、」

という文がぽーんと出て来る。これは何ですか。

「時間は直線と考えてしまう」

時間は直線ではなく、円だというのですが、この円はなんでしょうか。

私がすっぽり収まる器のように考えたらいいのでしょうか。

それともここで無限に回転しているものと考えたらいいのでしょうか。

 

 過去→現在→未来

ではなく(直線的)、

 今ー(断絶)ー今ー(断絶)ー今

だというのです。線がない。切れている。

 これは、円というのとどう繋がりますか。

  

 先を読んでいきますか。