<1680>「容れる」

 あなたそっくり、ええ、出来るだけ、、

 身体のなかにふくみたいと思います、

 当然の様相を持ちながら、ですが、、

 燃料になるものかしら、どうか、、

 そのままで一度放り込んでみますね、、

 どんなものだろか、

 なんてことだ、困ったな、困ったな、と思っているうち、

 私は、のめるでもなく、ひくでもなく、

 時間への入り方、というものを考え始めていた、、

 

 時間への入り方、というものを考え始めていると、

 こいつはどうも入る、、

 じんわりと、

 から騒ぎをするでもなく、

 はしゃぐでもなく、、

 それぞれになって入っていく、、

 そのように踊れたら面白いのじゃない?

 

 自分で作る範囲はなにだかおもしろくて、

 自分で作らない範囲は特におもしろくもないものだと、、

 とすると、

 そんな面倒なこと、と思いながらも、自分でする方が良いのは、

 それをすれば面白くて仕方がなくなるから、

 だと思います、

 

 身体のなかに容れる、なに、おそろしい言葉だ、、

 でも、容れる、そのことによって、より話が深くなるところもある、

 

 まず聞く、というところから考えてみると、これはまあ自身で勉強が可能だ、

 読む、ということについてもそうだろう、

 自分で可能なところ、にぐいぐいと干渉してしまうというのはあまり良いやり方ではないという話になっていくだろうか、

 勉強したかったら自分でしたらええ、というおもいが根底にあるので自身も外国語の勉強をちょぼちょぼ、グローブの皮をだんだん馴染ませるようにして行っている訳だが、こと、書くというところにおいては、模範的な形を調べて理解することは出来るが、私の書いたものが模範的なものと一言一句同じでないとして、その言語のルール上アウトなのかセーフなのかということは分かりにくい。教えられる、フィードバックする余地があるところ、あり続けるところがあるとすればこの箇所ではないのか、、

 

 こういうことを表現したいのだけれども、という、相手の要求に応えるためにはやはりある程度までは深く、外国語(全部という訳にはいかないが)が分かった方が良いし、また深く分かっていればいるほど良いだろうと思う、、

 

 つまり外、にあるものに自身を合わせていく、というのは局面上、当然必要になることもある訳だが、それは決しておもしろいことではないということもおぼえておくこと、

 それよりもむしろ内的構想、に沿うかたちで自身のなかの動機が盛り上がってゆくのがいい、その方がおもしろい、

 自分で出来るところは自分でやったらえ、と思うのは、その方が断然面白いからなんですね、投げやりでもなくて、

 その方が余計に、余計な、ものも入って嬉しいわ、