<1676>「なにかがない、またどうしてもある」

 ぼあぼあするな、いっかなものも、まあ重なって重なって、、

 ここへ連れられて来たな、、

 どうしても、生きていて、

 あ、そのしぐさのままに、重なると思えたから、、

 静かに生きていたもの、、

 静かにまわって過ぎるものの、なかに、、

 染みて、含まれて来たな、、

 

 走るんです、走るんですよ、、

 なにほうへなにほうへいかようにも繋がっていくのが見えたものですから、、

 さいわい、ここからまた時間が掛かっていくものだと思えますが何か、、

 私は いくつかの決まった通路を次々に駆けているようですね、、

 どれだか分からないけれど同じように、、

 ひとりの時間に帰る癖がついたのは、いつあたりからだろうか、、

 もう小学生の時にはそうであった、

 幼稚園は? そうでもないかもしらない、分からない、

 あなたは長男だよね、長男というのは他の人が注目しているところとは、他のところを見つけてくるようになるらしい、あなたもそうだね、

 と言葉をかけられていた、あれはどういうことだったろう、、

 

 まったく楽に出来てしまい困惑するところがある。

 スパルタ指導、というものがあるでしょう、

 あれは、能力が向上するということもそうなのかもしれないけれども、

 それよりも、

 「こんなに楽でいいのかな、困ったな」

 という隙間を埋めたい(指導する側もされる側も)気持ちによくよりそって自然に出来上がってくるものだから、なかなか、なくなった方がいいとは思いながらもそうそう簡単になくなるものでもないとは思えるんですよ、

 

 あ、そう、自転車を直す達人がいて、そうするともう修理に出せない、なんとも達人になればなるほど依頼が出来なくなるってのは変な話だとは思うが、いて、

「俺あスポーツやなにかはテレビでなくラジオできくよ。それであとでどうしても見たかったら映像をどっかで確かめて自分のなかの想像とで答え合わせをするんだ。その方が面白いよ」

と言っていた。まったくそうだろう。でも私は野球の映像が見られればついついそのまま見てしまう。まあそれでも良いのだろう。球場に行くとラジオをききながら観戦している人がいる。

 あれは、なんというか、人の声のリズムありきで野球が、自分の中で成り立っているような気がするから(テレビでもラジオでも)、気持ちがよく分かる。球場で観戦していて何かが足りないと感じるのはあの アナウンサーと解説者の掛け合いなのだ。

 山川が打ったときに、

「打球はレフトへ―!」

とか、

「打ったー!」

とか、入っていないと、変な感じがする。でもプロ野球選手はその状況で行うのが当たり前なので、変ななかで野球をやっているとは思わないだろう。これは見ている側に起こることなのだ。