<826>「白と緑の日」

 私のなかを緑色の直観が走る。資材も溶ける。人間も溶ける。私の生の長さと歩調を合わせるのではいけない。千年、万年単位で建ち続けなければならない。私は建物が欲しい訳ではない。つど死ぬつど死ぬ、それがまた、ひとかけらの木、その節(ふし)、小さな空間になり、虫は(それは人間でなくともよい)、光り輝くあの辺りへ、寄らばどうなるのか、知っているのかどうかが問題とならない。あそこで死んだのは間違いない。しかしそれは、光り輝く建物の名前だとしたら? 個人の幅を飲み込み飲み込み膨れ上がったあの腹中に巨大な建物の呼吸が映るとしたら? 私でもそこに飛び込んでいくだろう。だから、四十年隣の小屋で死んでいくものとにらめっくらし、頭上へ歓喜とともに運び続けた。死んだ木は人間を運んでいた(人間が死んだ木を運んでいたのではない)。着地点が姿をくらますことによりますます死人は生命に近づいていった。誰が生を続けているのかはどうでも良かった。イメージは全員を呼吸していた(全員がイメージを呼吸していたのではない)。むせ返るほどの連なりは、はて不思議に静かだった。そこでは胸が騒いだ。歓喜で爆発的な声を上げたくなった。だがそれは生え変わりの瞬間をまさに今目撃することによって抑えられる。ベリベリと何やかやの剥がれる音がし、高い温度的真っ白になっていることを悟る。それで私は光り輝くものとの同一、ああやって虫も飛び込んでくる、目の中に間違って飛び込んで来、そこからまさに中心運動、イメージの呼吸へと入ってゆくのを見逃さなかった。人々は行き過ぎ、時々立ち止まる。ちょうどひとかけらの木を、吸う音がする。ハッとして何かを思い出したような顔をする人々、そしてまた何事もなかったかのように行き過ぎる。さいわい、会話の端々が白くなってくる。ここは広場でなければならなかった。