<819>「関心」

  無関心な人たちがこんなに沢山いるせいで・・・。

  これは一番言ってはいけない言葉なのではないか・・・。

 

  「ねえ、あの人見て、ホラ、左手がないよ」

  「ああ、そうですね・・・」

 

 関心や無関心、差別の問題は、出来れば考えずに済ませたい。理想を掲げざるを得ない人間の(100%本能的には生きられない)、どうしようもない胡散臭さを見なければならないから。

  無関心や差別にさらされ、声を上げる人、積極的に差別に加担する人、そしてよく分からない私、全てに胡散臭さを感じる。しかし、そんな私でも、問題意識を持って、ひとりで動いている(他人に強制したりしない)人のことは尊いと思っている。

 個人に対して、社会全体は広過ぎる。個人がその全てを覆うことは出来ない。おそらく、見えてすらいない問題が大半だろう。そして、個人の目に映る範囲にまで限定したとしても、やはりその量は依然膨大なままだろう。重大な問題だと言われても、あるいは量が多すぎて、あるいは距離が遠すぎて、あるいは純粋にピンと来ず、意識の外にこぼれていってしまうものがほとんどだろう。

 そのなかから、興味を持てる、あるいは問題意識を持てるものがいくつか目の前に浮上してくる。そこで、触れる、語る、考える、などする。しかし、そのいくつか問題意識を持てたものでさえ、その全てに積極的に参加することは、時間的、物理的にも不可能だろう。

 そこで、特に重要と思われる、あるいは純粋に興味のある領域へ、的を絞って飛び込んでいく、積極的に関わっていく、ようなことになる。

 そして、このとき、

「どんなに口で言っていたり、ただそのことに触れていたりするだけではダメで、自分の身体を使って積極的にその問題に飛び込んでいてこそ、関心を持っていると言える。」

というように、関心を限定した場合、一個人というのは、善意・悪意、積極的・消極的に関わらず、構造的な、それも膨大な無関心の只中に置かれていることになる。広過ぎる社会に対して一個人は、問題意識の有り様に関わらず、こういう立場に立たされざるを得ない。

 だから、ある問題に積極的に参加している人がいたとして、その人が、

「大多数の人々の無関心のせいで上手くいかない」

という言葉を吐いてしまうのは、それは一番安易な自己肯定、一番簡単な自己正当化になる。既に述べたように、積極的に参加することに関心を限定した場合、そこには構造的な無関心が立ち上がる。個人々々が全能でなく、問題が無数である以上、これは避けられないことなのだ。それをつかまえて、

「人々がもっと関心を寄せさえすれば上手くいった。無関心は罪だ」

と断罪するのは、一番安易な方法というよりしょうがない。構造的にそうならざるを得ない他人をつかまえてひとりひとりに悪という判定を下し、自分は正義の側に立つ、それは、ひとりであっても行動するという尊さを存分に穢す振舞いである。胡散臭さもそこから生まれる。

 また、積極的にその問題に参加していて視野が狭くなっており、同じようにその問題に関わってこない人が悪に見えている人は、自身も構造的・膨大な無関心の只中にいることを忘れている。仮にそこに一切の悪意はないとしても、一個人の限界からして、これまでに膨大な問題をその人も取りこぼしてきていると思われる(また、取りこぼさざるを得ない)。無関心な他人を悪だと決めつけている己自身も、膨大な問題のそのひとつひとつに対する無関心者に、構造的になっている事実を忘れてはいけない。自身が関心を持っている問題に無関心な他人は、自身と同じような、一個人の社会に対する小ささ、無力さにさらされて、各々そこからまた別の的に絞って、動いているだけなのではないか、それはそれで尊いことなのではないか、ということに思いを馳せなければならない。

 それから、無関心は罪であり、もっと多くの人が関心を寄せれば上手くいく、と無邪気に信じている人々にも胡散臭さを感じるのは、

「ある問題に対して、全く誰も無関心を許されない状況というのは、怖い状況ではなかったのか」

 という思いがあるからだ。家の中であれ、公の場であれ、友達同士であれ、そのどこへ出て行っても、その問題を避けて通ることは許されない、無関心であることを断罪されるような状況は、考えるに怖ろしい状況ではないのか。無関心であることが許される(許される場がある)、そのことによって初めて一個人は、社会のなかでゆっくりと呼吸が出来ているのではないか。それが自由ということではなかったろうか。構造的に無関心であらざるを得ない個人が、無関心であることを許されない、それは最大限に息苦しいことである。