<438>「遅刻が平気な状況へ」

 一年に二百回ほどの遅刻をしてへいちゃらだった奴が、数年の内に二度遅刻をしただけであたふたしている。何ともおかしな話だが、遅刻をしたことによる不利益を、自分が被るか他人が被るかという観点から眺めれば、まあそこまで変なことではないのかもしれない。

 常識的に考えを進めれば、他人が不利益を被るような場面では、極力遅刻をしないように努めましょう、しっかりなさい、となり、それは別に間違ってはいないのだが、それはそれとして一旦置いておき、別のことを中心に据えてものを考えてみる。つまり、一年に二百回遅刻しようが三百回遅刻しようが、まるで問題がない状況をなるたけ早く作ること(それも、破滅的でない形で)。その状況を早く確立すること(焦りは禁物だが)。不利益を被るのは自分だけだからって二百回も遅刻していたのね、そんなダメな状態からはさっさと抜け出しなさい(あるいは抜け出せて良かったわね)と自分に話しかけるのではなく、それでその生活が成り立っていたということに着目する。もちろんそのときは親の支えがあったからこそそれが成り立ったわけだが、近い将来、あるいは近くなくても将来に、自分ひとりでその空間を成り立たせられるように今から努めていく。全て精力はそこに向かって注がれ、それを実現する方法をとにかく考えてみる。

 何故そうするか。自らの遅刻などによって他人が不利益を被っているということは、それが他人の時間であるという事実を示していて、そこで、自分が動いているのだからそれは自分の時間でもあるのだというように考えているのは完全に間違いであり、また、自分の時間というものがこのように明確に奪われていると、非常にストレスが大きくなるということがある。このストレスは意外と馬鹿にならないし、慣れてしまって感じなくなった人がいるだけで、ほぼ全員が感じているはずのストレスだと思われる。要するに、全面的に自分の時間を回復しなければ何かが壊れてしまうからそうするのである(そうしないと大きなストレスがかかりっぱなしということになる)。たといそれが完全なものにならなくとも、あくまで完全を目指し続けることが大事だ。