「楽をして生きていきたい」
という言が、他人の口から漏れてくる、あるいは、自身の内部から響いてくると、ヒヤリとする。おそらく、
「楽をしたいが為に苦しさを避け、結果未来がとんでもないことになる」
という想像を一瞬のうちに展開するからこそ、ヒヤリとするのだろう。ちょうど、まともに働きたくなくて闇金などにハマっていった人たちの、哀れな末路を描いたマンガを眺めているかのようだ。
だから私は、
「楽をしたいという姿勢、スタンス」
を、あまり良いものだとは思っていない節がある。そのため、楽をしたいという声が自身の内部から聞こえてきたときは、それをぐっと律するように努めているような所がある。
しかし、その律する姿勢も、行き過ぎると少し問題が出てくる。というのもその、律する姿勢が強すぎると、例えば、今現在行っている労働が、自分に合っている、得意であるからこそ、その労働を、
「楽に感じているし、苦痛にも感じていない」
のに、それを、
「今私は、気づいていないだけで、心の中の楽をしたいという声に突き動かされて、楽な労働についているのではないか?」
と勘違いして考えてしまい、得意な労働を放り出して、わざわざ苦手な労働に移って自分に苦痛を課すという、
「変な行動」
をとってしまう危険性が高まるのだ。
つまり、楽をしたいという姿勢を律する気持ちが強すぎると、
「絶対に楽をしたいと思ってはならないし、自分にとって楽な場所に身を置くことも許されない」
というように、どんどん自己に対する要求が過剰になっていって、結果、死ぬまで延々と、自分が苦手な、あるいは嫌いな労働を、自分に課し続けてしまうということになりかねない。
たしかに、
「楽をしたい」
という意識は、ともすると破滅への道に繋がってしまうこともあるかもしれないが、実際に従事することになった労働が楽に感じるか否かは、自分と労働との相性もあるので、楽に感じるからといって、それが必ずしも自身の、
「楽をしたい」
という姿勢に繋がるとは限らないし、また、すぐにそこへと直結させて、あえて苦手な労働へ進む必要は無いと思う。その労働が楽で、当人がそこを選んで楽をしているのではなく、本当にただただその人は、その労働が得意なだけなのかもしれないのだから。
と、偉そうに書いているが、私がこのことに気づいたのはついさきほどのことである。今私が従事しているアルバイトは、私が今まで経験してきたものの中では一番楽で、
「もしかしたら、非常に楽な労働を選んで怠けているんじゃないのか?」
と疑心暗鬼になっていたのだが、同じ職場で働くアルバイトの人が、
「ここは辛すぎるから辞める」
と言って去っていったのを見て、
「ああ、労働には相性というものがあるのだな」
ということを悟ったのだ。
思い返してみれば、私が過去相当に苦しんでやっていたアルバイトなどでも、そこで水を得た魚のように生き生きと、楽しく働いている人たちがいたことも思いだした。私はそこで働くのがこの上なく辛かったが、その人達はそこで働くことを楽だと感じていたのかもしれない。