<142>「欠落感の自然」

 全部は見えないはずの自分が、鏡や記録映像や画像によって眼前に現れる、しかしそれがいくら鮮明であっても、リアリティが感じられても、肉感を持った存在、肉体というものが現にここにあるように感じられる存在として私の目に映る訳ではないから、そういったものを介して見えてしまう私というのは、自己というものを崩さないのだろう。つまり逆を言えば、身体に埋め込まれたものではない、ある程度自在な動きが可能になった目玉が(昨日の文を参照)、直に肉感を持った自分の身体というものを眺められたとしたら、自己というものの同一性が揺らぐ、分裂する、あるいは自己というものが(観念が)無くなったり、稀薄になったりしてしまうのではないか、というような気がしている。

 欠落の感情、何かが足りていないという思いは、循環的な在り方と関係しているのでは。つまり吸ったり吐いたり、食べ物を入れたり滓になったものを排出したりと、延々に出して入れての循環を繰り返さなければ生きられない身体を持っている訳だから、出した量に比例する量が入っていない状態に置かれれば、当然何かが足りていない感覚に陥る。また、充分な量が入っている場合、瞬間を取り上げても、循環的な在り方を承知している、つまり出ていく予感というものを確かに持っているから、何となく全ては満たされていない気持ちになるのも当然なのではないか。であるから、現実にある、これこれの物が手に入れば完全に満たされるとか、ある考えの深みにまで到達すれば、完全な満足が待っているということは無く、欠落感は身体の根本条件から来るもので、いつまでもあって当然のものなのだと、今のところは思っている。