人物について間違うというのはあり得ないことではないだろうか、それはつまり当たるということもないのだ、ということを付け加える必要が生じるが。人物判断も正確に出来ないなんて、といくら言われようと、決して判断などはつかないのだから、人物を判断しようとするその姿勢の方が間違っているのだという立場を取りたい。例えば、人に騙されるような事件がある、それは、判断さえあっていれば大丈夫だったのに、という話ではないと思う。第一、騙すつもりもなかった人がだんだんに騙すような心持ちへ動いていくこともあるのだから、あるいは騙すつもりで動いていた人がだんだんにその気持ちを解いていくこともあり得る、そしてその微妙な運動は、一瞬で反対方向へ動いてまた戻ってを繰り返すこともある(そもそも混ざっていて見分けのつかないこともある)、その一瞬々々に合わせて、外側から何かを逐一判断するのはほとんど不可能だ、そもそもそんな運動をしようと考える人すらいないだろう。いや、結局その人は最後にこちらへ傾く、どういう経過を辿ろうとこちらへ傾くということが分かっていた上で判断を下したんだよ、と言う人があるかもしれないが、それはだいぶん怪しい。騙す方向へ傾くあるいは逆へ、最終的にそのどちらに傾くのかは非常に曖昧で、はっきり決まっているものではないからだ。何故そちらへ傾いたのか、内側から見ても外側から見ても、まるで確かめられなかったということがほとんどではないだろうか。騙された人の何が間違っていたかと言えば、判断をしたこと、判断が可能だと考えたことで、それは最終的にその当人が騙されたか、騙されずに終わったかという結果の如何を問わない。人物の判断を間違えたのではない、人物を判断すること、出来ると思うことが間違いなのだ。何とも言えない、その人のぼんやりしたけわいにぶつかること、外見や所属などの情報を受け取ることは可能だがそれは判断ではない。