さて、材料は揃った。もう充分に揃ったが、これからも次々に追加されていくことだろう。これだけ揃えば、いかようにも組み合わせて、どんな物語をも作ることが可能になる・・・はずだった。しかし、実際は逆だ。豊富になればなるだけ明らかになるのは、物語の不在だった。いかなる組み合わせも考えられない。勿論、無理やりに組み合わせることは出来るが、そうすれば、内部が激しい混乱に包まれるか、私が不在になるかだ。
ここが物語的であると無邪気に信じることが出来たのは幼年期だけで、しかしその頃にはまだ材料がなかった。老人はどこを見ている? 語りの正確さと多様さとの割に、視線は統一を失ってウロウロし、半ば呆然としている。当たり前のようにそこにあったものが急に無くなってしまうということを、何度も経験せざるを得なかったので、次第にどこを見たら良いのかが分からなくなっていった。
もし、一人間の生涯を、一挙手一投足、本当に微細なものまで余さず記述したものがあったとして、それを読んだ人は、そこに物語を見ることは出来ないだろう(あるいは、物語を読み取る前に参ってしまう)。記述の対象になった人物がどんなにか普通の人物であったとしても、そこに表現されているのはれっきとした錯乱だと思われる。紛れもない純粋な錯乱・・・。大衆の一部に表れるのではない。錯乱は狂気の結果ではない。基本的構造なのだ。