<21>「ある態度」

 耐えられない? そう、耐えられないという確信があり、日々それが強まっていっているような感覚がある。そんなことがあっていいのか、と思うのは、幸せを目標とするのが当たり前、いや、当たり前ということがわざわざ言われないほどに暗黙の前提となっている共同体の中にいるからかもしれない。それで、その中に居て、本当は享受したいけれど避けているんじゃないかという自己分析を常に為してきた訳だが、その前提が、当たり前に信じられる類のものでないとしたら? というのも、どうも私の中に、

「本当は享受したい」

などという気持ちが、端から存在しないような気がするのだ。

 幸福を渇望して、得られずに不幸であることに何らの悲惨も見出せないので、同調出来ずに、不遜であるように映ってしまう(否、実際に不遜なのかもしれないが)。しかし同調出来ないのは当たり前だ。幸福を目標とすることに何事をも見出せず、それを渡されても避けて通り、その場に捨てておくようなことをする人間の方が、どう考えても悲惨だからだ。だから、幸福を得ようともがいている他人の悲惨は、私には全く見えてこない。それをそのとおりに伝えることで、コイツは全く能天気で、悲惨も何もない人間なんだと勘違いされて睨まれる。不遜であるという認識はより強固なものとなる。