余ったものとしてあるということを意識して、モデルがあってもどうにも馴染めない。では、モデルがなかったら? どこへ向かおうが全く自由だったら? それは怖ろしいことのようだ。そうだ。だが、意識は同じだろう。余っているという感覚は。
全くもって余分だ。やることがない。なくなったのではなく、最初からない。適宜あるフリをするか。そうだ、それもいい。ごまかせればそれで。余っているという意識と、余っているという感覚に基づいた行動と、合わさるものだろうか。浮遊生活。最初から、足をつけるための道が無かったとして、その実一歩一歩踏みしめなければ進んでいかれないのだとは、皮肉な話だ。