それならば、所有しなくとも愛があると言っちゃって良いのでは・・・?

 昨日の続きのような話になりますが、昨日は、「カップル」や「夫婦」という所有形式こそ正しい愛の形だ、とは必ずしも言えないんじゃないかということを思った上で、では一体全体「愛」とは何なのかは結局、皆分からないんじゃないかという結論に至った訳です。

 そうすると、「カップル」や「夫婦」という形を、確かなことは分からないまま、「愛」の形としてとりあえず扱っているのならば、いっそのこと、

「所有の形式を取らなくても、そこにはちゃんと愛がある」

と言っちゃっても良いのではないかということを思うのです。つまり、付き合っていなかったり、夫婦ではない男女の親密な関係というのは、概して「遊び」であるという評価を受けやすいと思うのですが(実際に「遊び」であることもあるでしょう)、所有を介さない男女の仲であったって、「遊び」ではなく、そこには確かに「愛」があるんだよというように言ったって良いと思うということです。何故なら「カップル」や「夫婦」というあり方が、必ずしも正しい「愛」の表し方であると言えるかどうか分からないからです。

 それに、「カップル」や「夫婦」であろうが、そうじゃなかろうが、親密になった男女がやっていることに、実質的な差は無い訳です。そこには形式的な差しかないのに、「所有し所有され」の関係でない男女の仲には、「愛がない」と決めつけることは出来ないと思っています。

 にも関わらず、「カップル」や「夫婦」という形式の方ばかりが、愛の形として認められやすいのは、おそらく、

「一見して分かりやすいから」

ということに尽きるのではないでしょうか。所有を介さない男女の仲は「遊び」なんだか「愛」なんだかの判定がつけにくいし、当人同士もそれを確認し合いづらいという理由から、なかなかそれでも立派な「愛」の形だ、とは認められにくいのかもしれません(そうすると、好きだから一緒になってほしいというのは、所有をされたいというよりは、愛が存するということを確認したいという気持ちの方が大きいのかもしれません)。

 しかし、「カップル」や「夫婦」という形式に収まっているからといって、「愛」があるということにそのまま直結してくる訳ではないというのがまた難しいところです。形式だけでその実、完全に関係が冷え切っていることもあるでしょうし、それこそ「遊び」であることも考えられるでしょう。ですから、例えば、

「ある奥さんがいて、その旦那さんは全く奥さんのことを愛していないけれども、奥さんの友達の男性は、所有するつもりなど全くないままに(奥さんを奪って自分のモノにするつもりなど全くなく)、本気で奥さんのことを愛している」

というようなことは平気で起こっていると思うのです。所有だとか、「カップル」や「夫婦」というような形式だとかに「愛」は収まりきらないというように思います。