努力論を補完したいという欲望~悪い努力という言~

 『ただ努力すれば良いってものじゃない。ただ続ければ良いってものじゃない。努力の仕方が悪ければ上手くはいかない。質の良い努力、適切な努力をする必要がある。』

 なるほどこれらの言には確かにと思わされる部分もあるし、実際に、適切でない努力をしてしまっている場合も数多あるのであろうと思う。ただ、これらの言は誰が発しているのか、その根底に流れる、

「私は良い努力を為したから上手くいった。故に上手くいっていない人は皆、悪い努力、間違った努力を為している人である」

という意識(あるいは無意識)、努力論(ちゃんとした努力さえしていれば、絶対になんとかなるという信仰)を補完したいという意識には違和感を覚える。

 まず、この信仰が生まれ得る不思議を、私はこの論の信奉者でないから何故かをズバリと言い当てることは出来ないにしても、自身のささやかな成功の体験、感覚から類推して考えてみたい。

 仮に、何事かにおいて(何を成功とするかの議論は置いておくとして)、私が社会的な成功を遂げたとき、私の胸に強烈に襲ってくるのは他でもない、

「私の努力が実を結んだ!」

という意識である。むろん、その意識自体は完全に間違いとは言えないし、実際に努力が功を奏している面もあるだろう。

 しかし、当たり前のことだが、その成功を遂げるまでの過程には、無数の偶然、運が含まれている。挙げだせばキリがないが、例えば、

「えいっ」

と飛び込んだ選択がたまたま功を奏す場合、自身のたまたま得意とする分野が、たまたま社会的評価の高いものであるという場合、たまたま肉体的天分が、たまたま頭脳の明晰さが、たまたま理解者、あるいは師と出会い等々・・・本当に数え切れないほどの偶然が結果を左右している。極論を言えば、努力の過程で通り魔に襲われていないことだって運のひとつだ(冒頭にある「適切な努力」だって、やり始めるときは適切かどうかは分からず、それが適切だったと分かるのはずっと後になってからのことである。だから適切な努力にたまたま出会うのも偶然である)。

 それなのに、一度成功すると、この無数とも思える偶然や運を、無視するところまではいかずとも、軽視したい衝動に駆られるようになる。何故なら、

「この成功は、自分の努力のみ、あるいは大部分は自分の努力だけと結び付いている」

という意識から生まれる快楽が尋常ではないからである。成功した場合は、出来ればそこの快楽と強烈に結びついておきたくなる。ただ当然、自身の周りには、運不運で成功を逃した人たちが大勢いる。ここで、

「あー、自身の成功にも多分に運が関わっているな」

ということに気づくことが出来れば、努力論に過剰に傾倒していくことは無いと思うが、ここで、自身の強烈な快楽を妨げられたくないと思ってしまうと、

「失敗者は皆、質の悪い努力、適切でない努力の実行者たちだ」

という考えを持ちだしてきてしまうのではないかと思う。ここに努力論の信仰が始まると思っている。このとき仮に、自身が、

「えいっ」

と飛び込んだ先の方途が、偶然適切な努力をもたらすことになったというような事実があったとしても、自身の信仰、快楽依存のためにそれは意図的に忘れ去られている。

 こう見てくると、努力論を補完したいという意識の底には、成功から得られる尋常ではない快楽が潜んでいると思われる。この快楽の依存患者たちには、無数の偶然や運が全く軽いものにしか見えていない(実際はそれら無数の偶然や運が、成功の過程において担う役割は大きい)。

 要するに、こういった努力論(ちゃんとした努力しさえすれば・・・)は、無数の偶然や運の無視、軽視の下になり立っていると思われる。

 こんなことを長々書き連ねていると、

「所詮は世の中運と才能。努力したって仕方ない」

という考え方を持っているのでは、と疑われるかもしれないが、努力論の過剰な信仰を否定するからといって、真逆の考えをとっている訳ではない。それこそ無数の偶然や運という飛躍がありながら、

「えいっ」

と努力によって試行を繰り返してみないのは自身に対して失礼だと思っている。ただ、全てが努力で解決するとは思わないだけである。